
ヒラー航空博物館には、今まで聞いたことももちろん見たこともない歴史的な航空機が、しかもオークランドとは違って良好な状態で保存されています。
中には事故を起こした航空機がその状態のまま展示されていることも。

おいたわしやといった態のこの飛行機、
THADEN T-1 Argonaut
という超レア機種です。
1928年、サンフランシスコにある「Thaden Metal Craft Company」が製作し、そのデザインは Hervert von Thaden(ハーバート・フォン・セイデン)が行いました。
この機は、その最後の飛行となった1933年、アラスカの凍った河に墜落したもので、そのわりには怪我人もいなかったそうですが、飛行機の表面を見ていただくと、トタンのような波状の金属でおおわれていることがわかります。
セイデンT-1はアメリカが初めて開発したメタルスキン航空機の一つともいわれ、西海岸における最初のオール金属飛行機です。
アメリカ陸軍からの依頼を受けて開発されました。

セイデン、という名前をわたしは当初「サデン」と読んでいました。
残念ながら日本語ではこの飛行機そのものについての記述、ましてやその製作者について述べられたインターネットの資料は皆無だったので、確かめようもなく取りあえず頭の中でそう発音していたのです。
ところがその後観たアメリア・イアハートの映画「アメリア」で、例の女性飛行家ばかりの「パウダーパフレース」の様子が描かれており、そのときにThadenを映画では「セイデン」と発音していたので、初めて正しい読み方が判明したというわけです。
そのときレースに出場した女流飛行家が、本日主人公の
「ルイーズ・マクフェトリッジ・セイデン」。
まさにこのとき「パウダーパフ」で優勝したときの彼女の姿です。
彼女はお気づきのように、このT-1のデザインを手がけたフォン・セイデンの妻です。
今まで「女流飛行家列伝」でお話ししてきた女性たちは、たとえば富豪と結婚して、有り余るその資産で飛んだジャクリーヌ・コクラン、夫婦共同経営で飛行機会社を持ち、そのテストパイロットを務めていたナンシー・ハークネス・ラブなど、夫の何らかの関与があって初めて飛行家として活躍することができたという女性と、全く自力で飛行家となり、実力で有名になったベッシー・コールマンや、パンチョ・バーンズ、そしてブランシュ・スコットらの二種類に分かれます。
しかし、こう言ってはなんですが、どうも、「一人でやっていた組」よりも、「夫の協力あるいは財力組」の方が、結果的に名前を残すことができたような気がします。
あのアメリア・イヤハートも、夫のパットナムが全ての演出を手掛けたからこそあれだけ有名になった、というのは彼女の伝記を読めば誰でも気づくでしょう。
日本でも「アメリア・イアハート」ではなく彼女のことは「パットナム夫人」という名称が主に使われていたようですし。
つまり財力も社会的な基盤も持たない女性が、ある日突然飛行家として有名になる、というようなことは、特に1930年代においては、当時の女性の地位を考えてもありえなかったということです。
それでは、このルイーズ・セイデンも、夫のこのような地位があったからこそ
「当時世界で最もその名を知られていた女流飛行家」
となったのでしょうか。
ルイーズ・マクフェトリッジは、1905年、アーカンソーに生まれました。
小さいころは傘を差して高い場所から飛び降りるような女の子だったそうです。
しかし、裕福な医者の娘であったナンシー・ラブや、超良家のお嬢様、パンチョ・バーンズと違い、10代半ばに飛行機免許を取らせてもらえるような環境に育ったわけではなく、彼女が飛行機を初めて操縦したのは22歳になった時でした。
学校を出てからルイーズは、カンサス州ウィチタのTHTターナー・石炭株式会社で働いていました。
顧客に、「トラベルエアー・コーポレーション」という会社があり、その会社のオーナーであるウォルター・ビーチは、彼女をすっかり気に入りました。
この「気に入った」が、どういう「気に入り方」だったのか、そこまでは記されていません。
写真を見ると、彼女は美人ではないのですが、何とも言えないボーイッシュな、しかしキュートな雰囲気を持つ女性で、文字通り「気に入った」のかもしれません。
(高高度記録挑戦達成後)
ビーチは、彼女を石炭会社から引き抜いて自分の会社で営業担当の仕事を任せます。
この雰囲気から、非常に笑顔が素晴らしく営業に向いていて、会社に貢献してくれるとみただけで、純粋に「人間を気に入った」ということだとも考えられます。
ここではそういうことにしておきましょう。
しかしこの話がその辺の
「ちょっと気に入った女の子を自分の会社に入社させた」
というだけで終わらなかったのは、彼女を気に入ったという「ビーチ社長」というのが、後のビーチ・エアクラフト・コーポレーション、つまり、あの「ビーチクラフト」を作った航空機会社のオーナーだったからでした。
新しい職場でもらう彼女の給料にはどういうわけか「飛行機のレッスン代」が含まれていました。
それで彼女は「オハイオ州で初めて飛行機免許を取った女性」となっています。
ビーチの会社「トラベル・エアー」のロゴの入る飛行機の前のルイーズとフォン・セイデン
その翌年、彼女は夫となるハーバート・フォン・セイデンと出会い、その年の夏にはサンフランシスコで結婚しています。
セイデンの生年月日はわかりませんが、写真を見る限り、かなりの歳の差婚に思われます。
ビーチ社長に気に入られたこともそうですが、親父ごろしじゃなくて年上に気に入られるタイプだったんでしょうか。
それにしても話の展開が早い。
いや、これが普通だったんです。
何年もずるずる付き合っているくせに結婚しようとしないカップルなど全く珍しいことでもなんでもない、なんて現代の日本の社会がそもそもおかしいのであって、昔はアメリカでもこういうのが標準だったんですね。
出会う!気に入る!結婚する!
といった、まるで三段跳びのような段取りが当たり前、って社会でもなければ少子化なんてとても防げませんよ。
おっと、全く関係なかったですか。
このころにも彼女は取得した免許で輸送の仕事をこなし、「トランスポートレーティング(評価)」をもつ、史上4番目の女性パイロットとなっています。
夫が航空機製造会社のオーナーで、航空機デザイナーだったことは彼女のパイロットとしての挑戦におそらく拍車をかけたのでしょう。
彼女はこのあたりから猛然と女流航空界に頭角を現してきます。
1929年、女性による軽飛行機操縦で高度、耐久性、そしてスピードにおいていずれも最高最速値を得、またその前年は女性による最高高度到達(20260フィート)、さらには
耐久レースで 22時間、3分、12秒の最高記録を喫しています。
このころはジャクリーヌ・コクランなどを筆頭に、女性であっても男性と同様に飛行機のレースに出場することができました。
しかし、何がどう動いてだれが仕組んだのか、1930年から1935年までの5年間、女性は「女性であることを理由に」航空レースからは全く締め出されていました。
1929年には、これまで女流飛行家を語る過程で何度か触れてきた
パウダー・パフ・ダービー
が行われています。
女流飛行家ばかり、20名で争われたレースで、この大陸横断レースにルイーズ・セイデンも参加しました。
この名前から女ばかりのなれ合いのようなレースを想像されるかもしれませんが、決して楽なものではありませんでした。
アメリア・イヤハートはこのレース中墜落して機を失っていますし、ブランシュ・ノエスは機内火災に見舞われています。
ルース・ニコルズも、パンチョ・バーンズも墜落を免れませんでした。
参加者の一人、マーベル・クロッソンに至ってはこのレース中の事故で墜落死しています。
これは誰にも目撃されていない間の事故で、彼女の体は飛行機の墜落場所から150メートルも離れて見つかりました。
パラシュートが開かれた形跡はなかったそうです。
この時の順位表を上げておきましょう。
1、ルイーズ・セイデン
2、グラディス・オドネル
3、アメリア·イアハート
4、ブランシュ・ノイス
5、ルース・エルダー
6、ネヴァ・パリ
7、メアリー・ハイツリップ
8、オパール・クンツ
9、マリア·フォン·マッハ
10、ベラ・ドーン・ウォーカー
以前お話しした美人のルース・エルダー姐さんは、5位に入っています。
機を墜落させたのに、それでも3位に入っているアメリアさんはさすがです。
4位のブランシュさん、機内で火事が発生したというのに立派です。
それにしてもこれら強豪を差し置いて、昨日今日飛行機に乗り始めたルイーズがしれっと一位になっているんですね。
実は、この人、すごかったんじゃないですか?
冒頭に制作した画像は、このパウダーパフのときに優勝を決めて着陸した直後のルイーズ・セイデンの勇姿を参考にしました。
そして彼女の進撃は留まるところを知らず、1936年、またまたどういうわけか女性がエアレースに参加することが解禁になってすぐ、ルイーズはニューヨーク―ロスアンジェルス間の到達時間を競う
ベンデックス・トロフィ・レース
に出場。
男性に女性が挑戦することを許された最初の年のこのレースにおいて、なんと、14時間55分で世界記録を更新し、これまた難なく優勝しています。
この時の使用機はあのビーチ社のビーチC17Rスタッガーウィング。
この時の二位も女性で、ロッキード・オリオンで飛んだブランシュ・ノエスでした。
この時にタイム誌にはこんな記事が掲載されています。
「セイデン夫人は賞金7000ドルを得たが、それとて男性を差し置いて優勝したという喜びに比べれば何の価値もないに違いない。
アメリカで最初に輸送用の飛行機免許を取った10人の女性のうちの一人が、今や第一線で「男女の戦い」を繰り広げる「戦士」になったのだから。
クシュクシュのブロンドヘアーをしたセイデン夫人は6歳の子供の母親、そして速度、高度、耐久時間においてすべての女性最高記録保持者である。
(中略)ノエスとセイデンの二人は先週記者会見を行い、にこやかにほほ笑みながら語った。
”まあ、本当に驚きましたわ!
どうせわたしたちはびり(the cow's tail)だと思っていたので”」
実は自信満々だったとしても、当時の女性としては反感を買われたくないのでこのように言うしかなかったのかもしれません。
この後、彼女は別の女性パイロットと組んで耐久レースに出場しており、その模様は全米の注目を浴び、ラジオでライブ放送されたほどです。
196時間の耐久時間を記録したこのレースでは、別の飛行機から食料と水の補給を受け、さらには当時軍でも開発真っ最中であった空中給油を行っています。
引退直前、彼女は夫の会社の開発したセイデンT-1 がすでに生産を中止していたこともあり、古巣のビーチクラフトにもどってテストパイロットを務め、1938年に全ての公的飛行から完全に引退してしまいます。
このときまだ彼女は33歳でした。
ほかの女流飛行家が引退などどこ吹く風で飛び続けたのに対し、トップを走り続けた彼女は、全盛期で、しかも世界一のタイトルを奪われないうちにあっさりと人々の前から姿を消したのでした。
そしてその後自伝を書きましたが、そのタイトルは
”High, Wide and Frightened”
(高く、広大に、そして恐怖)
たまたま才能に恵まれた女性が、その才能を引き出す男性にも恵まれ、本人もあれよあれよという間に一線のパイロットになってしまったものの、実は彼女は、魂の底から湧き上がってくるような「飛びたい」「勝ちたい」という野望とは無縁の、おっとりした普通の女性であったのではないか。
このタイトルを見ると、そのように思えてなりません。
引退後の彼女は、74歳で亡くなるまで、楽しみでしか飛ぶことはありませんでした。