映画「日本のいちばん長い日」 -八月の天皇陛下-

「日本のいちばん長い日」が劇場公開された時、恥ずかしながらこの同名映画がまたしてもリメイクされていたことをわたしは全く知らなかったのですが、TOが、

「この映画だったらどんな忙しくても観るでしょう」

と、WOWOWの関係者からチケットをもらって持って帰ってきてくれたのです。
ところでこういう映画が申し訳程度にしか上映されないのはもうわかっていますが、そシネマコンプレックスで朝9時からの1日一度だけの上映だったんですよね。

会場には5分遅れくらいで予告編の時に入ったのですが、 ほとんどが年配かそれ以上の男性ばかり、10人もいたでしょうか。
歴史に全く興味がなければ、朝9時にわざわざ映画館まで足を運ばない題材ですが、いちばん前で若いカップルが足を伸ばしてのびのびと座って見ていたのが目を引きました。
で、いきなり結論ですが、こういう映画にはやたら点の厳しいわたしが、あれ?この映画ちゃんとしてね?と思った(つまり良かった)ということを言わねばなりません。

巷の前評判では「観る前から分かっている、冒涜だ」と言い切るお方もおられたようで、実際全く期待せずに行ったわたしには、その気持ちもよーくわかりました。
でも、不肖わたくしがどんなに厳しい目で見ても、特定の人物を現代の解釈で「ある方向」に恣意的に誘導した印象操作を行うなどの傾向はなかったと断言できました。

あくまでもわたしの個人的観点からですが、この映画が成功していた点を一つ挙げるとしたら、「リメイク」をするのではなく、全く同じ題材を、アプローチを全く変えて語ったという目線の新しさだと思います。
「日本のいちばん長い日」は、もともと大宅壮一の作品として知られた、

「日本の一番長い日 運命の八月十五日」

という題名で、1967年に映画化されています。
それがどういうわけか半藤一利のクレジットになったものが(この辺の事情わからず)

「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版」

として、1995年に出版されました。
大宅版の映画が岡本喜八監督で、半藤版が今回の映画ということです。

1967年の岡本喜八監督版を見たことがあるのですが、まず、阿南惟幾陸軍大将を演ずるのが、なんと三船敏郎です。
方や、またもというかなんというか、こちらは役所広司

「聯合艦隊司令長官山本五十六−太平洋戦争70年目の真実」(長いんだよこのタイトル)というやはり半藤の原作の映画で、役所さんは五十六を演じているわけですが、ということは、もしかしたら今の映画界って役所広司が三船敏郎的立ち位置なの?

三船敏郎も大物ゆえ、山本五十六を何度か演じ、また阿南も演じているのですが、役所広司が果たして現代の三船敏郎か?といったら、それは違うと思う。
もっとも三船が演じると、すべての軍人が「三船敏郎風」になってしまい、なんというか、本体からはまったく一人歩きしてしまうので、わたしはそれほど軍人俳優としての三船敏郎を評価しているわけではないですが。
ちなみに、劇中、2年前に戦死した阿南の次男の写真がなんども登場しますが、
これは三船敏郎の長男である三船力也(まだ27歳)の写真だそうです。

役所の演じる阿南惟幾をどう評価するかはのちに譲るとして、わたしはふと検索で引っかかったやはり岡本喜八監督の、「日本破れず」という映画、いわばプレ「日本の一番長い日」を取り寄せて当ブログで取り上げたことがありますが、この映画も阿南惟幾に主眼を当てた作品です。
で、このバージョンでは誰が阿南を演じているかというと、早川雪洲なんですね。

raffaell0.hatenablog.com早川雪洲。それはいいところに気がつきました(笑)
パッケージの写真を見て、おおこれは阿南大将そのままじゃないか、とわたしは結構感動してしまったわけです。
残された写真から見ると阿南大将はおそらく背も低かったはず。
ハリウッドで「sessyu」という、映画の撮影の時に俳優の背を上げ底するための足台に名前を残されてしまった早川雪洲演じる阿南惟幾、その点はリアリズムだったのではないかと期待しつつ、観た結果、これはなかなか骨太の終戦ものでした。

ところで冒頭挿絵、主人公でありながら阿南を演じる役所広司の絵すら描きませんでした。
役所起用を評価をしていない、とまでは言いませんが、この映画はこの二人を描けば十分、とものすごく勝手に判断したためでもあります。
まず左、鈴木貫太郎を演じた山崎努
映画を見る前なら、なんて無理やりなキャスティングだと思うところですが、さすがに名優山崎、映画では鈴木首相そのもの。

とくに眉毛が(笑)
鈴木貫太郎の長~い三角眉毛を、増毛でもしたのか、アップになった時も抜かりなく再現しているのには感心しました。
ってどこに感心してるんだ。
どちらかというと成分的に脂っ気の多いように見える山崎ですが、この映画ではすっかり身も心も枯れ果てた風で、

「もう高齢だから首相指名を断っていたが、昭和天皇たっての指名で人がいないと言われ、最後のご奉公をするつもりで内閣を率いた」

あの頃の鈴木貫太郎の、いかにも気力に体力がついていくのも大変そうな様子さえよく表されていると思えました。

これが岡本版だと鈴木首相は笠智衆《外見的にはぴったり》、米内海相が山村總《かなり違うけど、米内海相を柄本明に演じさせた『長いんだよこのタイトル』の映画よりマシ》となります。

さて、今回の「日本のいちばん長い日」と、「日本の一番長い日」大宅原作とがまったく異質のものに仕上がっているのには、大きな原因があります。
昭和天皇を主人公にしたことです。

そこでこの映画の英語題を改めてご覧ください。

「THE EMPEROR IN AUGUST」

つまり、「八月の天皇陛下」です。

本作品監督の原田眞人は、この作品について

これは昭和天皇と阿南惟幾陸相、そして鈴木貫太郎首相の三人を中心とする”家族”のドラマです。

と言っています。
終戦の日の宮城事件を描いた日本映画は戦後何本かあるけれど、どれも天皇陛下については全く描かれていないので、いつか昭和天皇を中心としたこの映画を撮ってみたかった、というのが監督の大きなモチベーションであったようです。

天皇陛下を俳優に演じさせることは、もちろんご存命の時には不可能で、せいぜい後ろ姿や引きの姿しか写すことができなかったのですが、崩御されて御代も代わり、天皇陛下が「歴史」となったことで、ようやくそのようなことも可能になった、と監督は判断しました。
映画のテーマも、その1日に起こったこと、主に決起を中心に描いた従来版と違い、昭和天皇の終戦のための「聖断」が重要なモチーフになっています。

戦後いかなる言論も・・・海外の反日本勢力ですら、戦前の日本が天皇の独裁国家だったとはしません。
この理由は、天皇が元首であり統帥権なども有する、とした大日本帝国憲法がありながら、天皇の意思は枢密院を通して初めて布告の形を取るのが慣例でしたし、また別に、内閣の影響を受けない発言権を持つ内大臣という言論機関が機能していたからです。

そもそも、大東亜戦争開戦時の御前会議でも、昭和天皇の御発言はありませんでした。
このとき、明治天皇御製が読まれ、間接的に日米開戦を回避するように訴えられたものの、その御意思に背く形で開戦は遂行された、というように、終戦の御前会議で天皇陛下が「鶴の一声」である「御聖断」をされたのは、歴史的に見ても初めてのことだったのです。

これは映画でも描かれていますが、鈴木貫太郎首相が「超慣例的措置」?を取り、天皇陛下の御名において、有無を言わさぬ形で終戦に持ち込むということを決定したからでした。
 
さて、「聖断を仰ぐ」という形で終戦を進める鈴木と、徹底抗戦・本土決戦を叫ぶ陸軍の間で、不幸にしてそのとき陸相であった阿南は、立場上、陸軍の側に立つ他ありませんでした。
しかしそれは天皇のご意志に背くことにもなるのです。

ポツダム宣言受諾が決したとき、阿南惟幾が切腹による自決をしたのは、自らが一人死ぬことによって責任を取り陸軍の造反を抑えることと、天皇陛下に対しての謝罪の意がそこにはあったと考えられています。

ともあれ、映画の最も重要なるシーンは御前会議による御聖断であり、天皇陛下が阿南に向かってかけられたお言葉、

「心配してくれるのは嬉しいが、もうよい。
わたくしには国体護持の確証がある」

に、阿南が言葉を失うシーンであり、さらには、

「わたくしはどうなっても良いから国民の生命を助けたいと思う」

というお言葉に重臣たちが嗚咽するシーンでしょう。
そこで昭和天皇を演じるのが本木雅弘。モッくんです。

まさか「シブがき隊」というアイドルグループで踊り狂っていた少年が、日本映画史上初めて昭和天皇をガチで演じることになろうとは、当時誰に想像できたでしょうか。

で、この本木雅弘の天皇陛下が素晴らしい!

わたしがこの映画を当ブログで取り上げることにしたのも、すべて、この天皇陛下の演技に痺れるほどの感銘を受けたからです。

一時の戦争映画ではやたら天皇の御名を連発し、反語的に貶めて批判をするという腹立たしい演出のものがありましたが(例:大日本帝國)、この映画においては昭和天皇に対する深い敬愛が隅々まで感じられ、本木雅弘の端然とした、気品のある、そして本人の言うところの、

「日本国民の平和を願う祈りの像としての天皇」

が、いかんなく表現されています。
侍従との会話で、あの「あっそう」という返事をされるところも取り入れられており、声の調子すら「チューニングには神経を払った」という渾身の演技で表現された「本木天皇」の出演シーンはそれだけで目に快でした。
役作りには本人はもちろん、全スタッフが異様なほどの神経を払ったそうで、たとえば眼鏡なども、最終的に絞った二つの中から、多数決で決められたものだとか。

今プロフィールを見て驚いたのですが、本木雅弘、本作撮影時はもう50歳だったんですね。
終戦のときの天皇陛下はまだ44歳であられたということですが、年齢的にも違和感は全くありませんでした。

さて、そこで阿南惟幾を演じる役所広司です。

陸軍の決起を抑えるために、会議の席で重臣が一人一人自分の考えを述べていく。
全員がポツダム宣言を受け入れ戦争を終わらせるべき、と答えるのですが、途中で我慢できなくなって部屋を飛び出した阿南が、「徹底抗戦」を訴えてくれと頼まれた陸軍将校たちのところに電話をするんですね。

「安心しろ。ほとんどが徹底抗戦だ」

なんでこんなすぐバレる嘘を言ったのか、果たしてこれが史実だったのかさえもわかりませんが、これが阿南惟幾の「板挟み状態の苦悩」を最も顕著に表しているシーンに見えました。
欲を言えば、これだけの葛藤を裡に秘めている陸軍軍人にしては、役所さんはあまりにも表情がビビッドすぎて(笑)「らしく」見えないということでしょうか。
それとヘアスタイルが中途半端で往生際が悪い。
松坂桃李くんですら潔く坊主になったというのに、陸軍軍人なら潔く五厘刈りにせんかい。と思いました。

阿南惟幾のイメージは写真と陸軍軍人ということから強面な感じがするのですが、実際はいわゆるエリートではなく、(陸軍大学に二度受験失敗している)ただ人望と真面目さから出世した軍人で、家に帰れば子沢山のマイホームパパ。
6男2女の父で子煩悩、子供達をデパートや映画館に連れて行くのが何よりの楽しみ、などということから類推される人物像から、案外、役所広司の演じる表情豊かな、少し頬が緩みすぎなのかなと感じる阿南惟幾像もありなのかもしれませんが。

あと、岡本版では天本英世が演じた、

佐々木武雄(特別出演:松山ケンイチ)

がこちらもワンシーンだけ登場していました。
宮城事件の時に出身校である横浜工業高校の生徒らを募って、首相官邸と鈴木貫太郎の私邸などを相次いで焼き討ちにする事件を起こした人物です。

この映画で松坂桃李が演じた決起将校の畑中健二陸軍少佐と知り合いで、陸軍全体の決起に呼応すべく立ち上がった・・・・はずだったのですが、あちこちで動きが抑えられた結果、決起にはなりえず、結果として畑中少佐の反乱という形に「スケールダウン」(wiki)してしまったので、この人物の動きは、こちらも結果として全く意味をなしませんでした。
そのことを表してか、このシーンは何かとぼけた可笑しみのような悲哀が漂って見えます。

というわけで、歴史に興味のある方はもちろん、無い方にとっても、本木雅弘の昭和天皇を観るだけの価値がある映画だと言っておきます。
当方、お恥ずかしい話ですが、「本木天皇」の御聖断のシーンでは劇場でふいに涙がこぼれたことを告白します。
 

昭和天皇と或る少尉候補生〜上野村村長黒澤丈夫氏の話


昭和60年8月、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落しました。
このとき、御巣鷹山のある群馬県上野村の村長は、かつて海軍士官であった黒澤丈夫氏でした。
現在写真や動画で見ることができる日航機墜落地点に建てられた「昇魂碑」という文字の揮毫は黒澤氏の筆によるものです。
今度写真をご覧になることがあれば、碑の左側にある氏の名前に注意してみてください。

さて、事故直後、上野村村長の黒澤氏がかつて海軍士官搭乗員として零式艦上戦闘機に乗っていたということが、いろんな媒体で報道されました。
この史上最悪の飛行機事故が、飛行機乗りであった黒澤氏に取ってどう捉えられているか、マスコミはその点に注目し、インタビューを試みた媒体も多かったようです。

「飛行機を操縦していて、操縦不能、あるいは操縦困難だったという経験はあるか?」

この質問に対しての黒澤氏の答えはこうです。

「パイロットがですよ、操縦不能に陥るなんという事は、死ぬ時以外は殆ど体験しないと思いますよ」

一時的にエンジンが止まるとか、細部が少し傷んだ、というようなことはあっても、上下左右、向きを変えることが出来ないという経験はなかった、というのです。

だからね、パイロットはもう、本当に悩み苦しんで、おそらく何処へ降りるように出来たらいいかなというような気持ちはお持ちになったのでしょうが、それも、そっちに向けるわけには行かないんですからね。
それに、500人以上のお客様が乗っている。
この人たちの命を失う様な事があっては絶対にならない、それなのに飛行機はいう事を利かない。
それは、もう本当にあれでしょうね、頭の中がカーッとしちゃって、普通の人だったら支離滅裂になる状況だったと思いますが、しかし、あのパイロットは冷静 にお考えになって、エンジンを使って、それで多少なりとも飛行機の方向を思う方向に向けよう、
という努力をされてる様に
記録を読ませてもらってそういう感じを持ちますよ。

(『ラジオ深夜便』に出演した黒澤氏の発言そのまま)

事故直後から、その対応に追われた上野村ですが、遺体の収集がひと段落した段階から、今度は犠牲者の慰霊、納骨等々の責任を果たす実際の行動が「法律上」義務付けられることになります。
つまり、村の一般会計に葬送の費用を計上せよ、というのが村に課せられた「現場の義務」であったということなのですが、ここで、黒澤村長が配慮したのが、上野村出身の戦没者の立場でした。

戦没者に対する慰霊に関しては公的には何も行えない、行ってはいけない、という実情を鑑みると、それをさておいて日航機犠牲者の葬祭の費用を年々計上するというのは、

「村民感情としても後あと問題となってくる」

このように黒澤村長は判断し、村とは違う別の法人を作り、そこが慰霊を行っていく、という風に計らったそうです。

黒澤丈夫氏は、91歳まで日本の現役最高齢の市長としてその任を果たし、2011年の12月、97歳で亡くなりました。

村長として村のためにその半生を捧げた黒澤氏は、再選10期の長きに渡りその任にあって、銅像が建てられたほど村民の信託を受け続けた「名村長」でしたが、政治家としての黒澤氏については、ご本人が著書をいくつか遺されているので、興味をお持ちになった方は、是非読んでみてください。

このように、非常な「傑物」であった黒澤氏ですが、その偉業については少し置いて。
今日わたしがこの黒澤市長、いや、元海軍少佐黒澤丈夫について書いたのは、ただただ次の印象深い逸話を皆さんに聞いていただきたかったからです。

ちょうど、この「ラジオ深夜便」出演の頃のことではないかと思われます。
天皇皇后両陛下が、事故処理にあたった上野村関係者をねぎらうために当地にご行幸遊ばされました。
村長として陛下に事故の経緯、説明を申し上げていたところ、陛下は黒澤氏の顔をじっとご覧になり、

「ひょっとしてあなたは海軍大演習のとき、
戦艦日向か長門(霧島説もあり)に乗っていなかったかね?」

黒澤村長は、驚愕します。

確かに黒澤氏が海軍兵学校卒業後すぐ、少尉候補生としてその海軍大演習のとき陛下の拝謁を受けているのです。

それは昭和15年に行われた特別海軍大演習でした。
当時の時勢を反映し、陸海軍共にこの時期は盛んに演習が行われましたが、この時には特に改装を終えたばかりの最新鋭の連合艦隊の艦船が披露されました。
参加艦艇を書き出しておきます。


【戦艦】(6隻)
長門、陸奥(第一戦隊)

霧島、榛名(第三戦隊)

扶桑、日向

【航空母艦】(3隻)
加賀、鳳翔、龍驤

※「加賀」は、三段式甲板から全通式の単層甲板へと近代化改装を終えた直後

【重巡洋艦】(主力級)
高雄、摩耶

妙高、那智、羽黒(「足柄」と共に第五戦隊を構成)

青葉、衣笠

【軽巡洋艦】
神通、那珂、川内(水雷戦隊の旗艦など)

長良、五十鈴、由良、名取、鬼怒、阿武隈

球磨、多摩、木曽

【水雷戦隊・潜水戦隊】
駆逐艦:吹雪型(特型)、初春型、白露型など、数十隻が参加。

潜水艦:伊号・呂号潜水艦など

【その他】
練習艦:磐手、八雲(練習艦隊)

潜水母艦:大鯨(後の空母「龍鳳」)

水上機母艦:神威

 

「日向か長門」
陛下はこのように仰せだったわけですが、実際に乗組員の拝謁賜るとなると、それはおそらく旗艦でしかあり得ず、正解は「長門」だったのではないかと思われます。

もしかしたら陛下は御巣鷹村にご行幸前、この有名な村長について海軍出身であることとその経歴について知識を得ていたのでそんなことが言えたのだろう、などと考える人もいるかもしれません。
いや少しお待ちください。
十歩譲ってたとえそうだったとしても、その人物が少尉候補生時代大演習に参加し、さらに旗艦に乗り組んでいたなんてことまで経歴に書き込んでいるはずがないのです。

つまり陛下は本当に黒澤氏の顔に見覚えがあったのです。

しかしそれはゆうに半世紀以上前のことで、現在目の前にいる人物は71歳の老人です。
何十人も居並んでいた士官の前を敬礼されながら通り過ぎただけの、さらに最もひよっこである一士官候補生の顔を、なぜ陛下が覚えておいでになったのか。
そして仮に若き日の黒澤氏が非常に印象的な候補生だったので陛下は目に留められたのだとしても、二十歳の若者の面影を、当時七十歳を超えていた黒澤氏の上に認められたということになり、それはそれで驚嘆するしかありません。

この天皇陛下の神のような記憶力と、陛下がかつての自分を記憶に留めておられたことに対する黒澤氏の感激は、いかばかりであったでしょうか。

黒沢丈夫Kurosawa Takeo
-2011(兵63、84/124群馬).少佐.

富岡中

1936.3/19少尉候補生

37.4/1少尉.9飛行学生第29期

38.11/15中尉、第12航空隊39霞ヶ浦航空隊教官

40.11/15大尉>元山航空隊分隊長>第3航空隊分隊長42.10大村航空隊飛行隊長43.9第381航空隊飛行隊長

44.5/1少佐

第2復員官

65-2005群馬県多野郡上野村長95-9全国町村長会長

11.12/22死去(97歳).



ベイエリア生活

今年も恒例のベイエリア生活が始まりました。
淡々と写真を貼りながら今のベイエリアをご紹介していきます。


ここ最近羽田発成田帰国というフライトのパターンが続いています。
羽田からは深夜発なので出発日の準備に余裕ができるのがいいところ。
今年は羽田のターミナルに新しくできたというクレジットカード会社のラウンジに行ってみました。

深夜便待ちのためラウンジが閉まる直前でしたが、用意されているフードは悪くありません。


目にも楽しい和風デザートも用意されていました。
これから羽田発の待ち時間の楽しみが増えました。

本日の機材はフラットになる部分の窓側に無意味な空間が広がる例の謎シート。
(多分前列シートは窓の側にフラットシートがある)


しばらくグローブトロッターが続いていたアメニティですが、今回はイタリアの皮革ブランドFRANZIのポーチにフレグランスブランドのCULTIのボディクリーム&リップバームとその他(歯ブラシ、アイマスク、耳栓)搭載というものに変更されていました。

出発は23時近く。

深夜発なので食事は朝食のみ。
食べたい人はメニューからラーメンやカレーなどを選んで個別にオーダーします。
朝食はろくにメニューを見ずいつも和食を選んでいます。


映画はレイフ・ファインズ主演のイギリス映画「ザ・コラール」を観ました。
今調べたら邦題は案の定「ザ・コラール 希望を繋ぐ歌」となっていました。
サー・エドワード・エルガーがギリ生きていた時代(第一次世界大戦時)で、エルガーが登場すること、エルガーの「ゲロンティアスの夢」というオラトリオを取り上げた点を評価したい佳作でした。

パロアルト上空に到着しました。


そしてお馴染み旧塩水蒸発池(塩田)のカラフルな海が見えてきます。
なんでも塩分濃度が濃いほどバクテリアや藻が赤くなるらしいので、この辺は塩分濃いめってことですね。

空港へのアプローチ直前、サンフランシスコ湾を挟んで対岸と結ぶサンマテオブリッジが見えます。

■ 住居


そして今年お世話になる家に到着。
去年の前半借りた家が大変気に入ったので1ヶ月契約していたのですが、その後オーナーが財政的事情でビジネスをやめてしまったので、後半に借りた家で全期過ごすことになりました。

この写真は部屋から向かいの家を撮ったもので、今ドアのところにいる老人はこのうちの老人に定期的に食べ物?などを運んでいるようです。

とにかくこのコンドミニアム、老人がたくさん住んでいて、歩行器や杖の人と狭い通路ですれ違いこちらが脇に避けて待つこともしばしば。

去年住んでいたとき、隣に住んでいる老人のベッドがわたしのベッドの壁向こうにあるらしく、毎夜時間通りに始まる大音量のイビキに大変悩まされたのですが、今年来てみたらピタリと静かになっていました。
どうやらこの一年の間に引っ越したかあるいはお亡くなりになった模様です。🙏

睡眠時無呼吸症候群って怖いんですよね・・。(って決めてかかってる)

■買い物・食事

去年衛生局の監査により営業停止になり、全面改装していたクパチーノのWhole Foods Marketは再オープンして店内の通路を広げ、駐車場も整備して大変使いやすくなりました。

アメリカに到着した時には独立記念日からすでに4日過ぎていましたが、売れ残りのケーキを半額で売っていました。
独立記念日のケーキということで赤と青を使いたいのはわからんでもないですが、日本人の感覚はこの色の食べ物を身体に入れるのを本能が拒否してしまいます。
しかもハクトウワシがかけているサングラスのクリームの色、黒って。(黒胡麻なら許すけど多分違う)

麻婆ナスを作りたくなったので日本スーパーではなくここで探してみたのですが、あまりの巨大(直径15センチくらい)さに思わずたじろいでしまいました。
一度思い切って使ってみたところちょっと大味程度であまり日本のナスと変わりません。
ちなみにナスの下のグリーンのものはトマティーヨといってメキシコのホオヅキ。
グリーンソースの材料に使われるもので、多分辛いです。


到着して最初の週末、MKがガールフレンドを紹介してくれることになったので、彼らのおすすめの「ホットポット」(鍋料理)レストランに行きました。
テーブルには人数分の鍋が仕込んであり、肉野菜シーフードを選んでお好みのソースを別テーブルで作り、ディップして食べるという趣向です。

MKとガールフレンドのNさんは大学の同級生ですが、在学中はお互いを知らず、卒業してから大学の集まりで出会ったとか。
実は去年ここでPCのモニターが壊れて新しいのを買った時、社員割引を使わせてくれたのは彼女だったことがわかりました。

MKの歴代彼女(というほどいませんが)は全員が理系女子。
彼のタイプはまず頭が良い人みたいです。聞いたわけではありませんが多分。

■MKの会社に迎えにいく


コンドからMKの会社まで車で8分くらいの距離ですが、踏切が閉まると2分くらい待たされます。
今通過している電車は2両編成で、この後右側の本線に合流します。


MKの会社はこの地域のビジネスパークの中に最近移転しました。
広大な敷地の中に主にテック系の会社が点在しています。

わたしたちのいる間、平日はほぼ毎日一緒に夕食をしています。
MKは料理をするのが好きですが、流石に毎日自分で作ることはせず、大抵は会社の「ドアダッシュ」(Uberなどの宅配)で済ませてしまうのです。
ちなみに会社は夕食のデリバリー代を全て持ってくれる=つまり遅くまで仕事してくれるなら夕食代は出してくれます。
決まった出勤&退勤時間はなく、「残業」という制度そのものが存在しません。

駐車場でMKを待っていると、黒リスが駆け抜けました。

シリコンバレーやベイエリア周辺で見かける黒い
カリフォルニアジリス(Otospermophilus beecheyi)
は、完全な自然発生による「黒化型(メラニズム個体)」です。
 別の外来種や特殊な交雑種ではなく、標準的な斑点模様を持つカリフォルニアジリスと全く同じ種になります。 
通常のカリフォルニアジリスは背中に白や茶色のマダラ模様があり、肩のあたりが淡いグレーを帯びていますが、黒化個体は体内のメラニン色素が過剰に作られることで黒毛になるのです。
地リスは巣穴の周辺の個体同士で繁殖するので、一度黒化遺伝子を持った個体が発生・定着した特定のエリア(サンタクララやベイエリアの一部の公園・キャンパスなど)では、その遺伝子が引き継がれ、黒い個体が目立って観察されるのです。
この現象は1900年代初頭から文献で報告されています。

■散歩と猫

去年も歩いた「スティーブンス・クリークトレイル」は、33キロにわたって流れる小川沿いのトレイルです。

カリフォルニアの固有種である
カリフォルニア・フランネルブッシュ
(英名: California Flannelbush / 学名: Fremontodendron californicum)
です。
花弁のように見える部分は実は萼(がく)片で、中心の雄しべの構造も非常に特徴的です。

「フランネル」の名のとおり、葉の表面や裏面、茎に柔らかい起毛がありますが、この細かい毛は、皮膚に触れると痒みや炎症を引き起こすことがあるとか。
(目に入ると特にやばいらしい)。

アメリカの空中歩道のほとんどは下が道路や線路の場合絶対飛び降りられないこのような構造になっています。
こうでもしないと必ず車道や線路に飛び込む人が出るからです。
しかし下が緑地や空き地の場合(つまり迷惑にならない場所では)天井部分のないただの柵です。


ある日このトレイルで散歩中の猫に遭遇しました。
すかさず猫語で呼びかけると立ち止まってこちらを見てくれましたが、


すぐに身体を掻いて行ってしまいました。
首輪をしているので近隣住民の飼い猫のようです。

今住んでいるコンドミニアムはいわゆるタウンハウスなので、広大な敷地内は緑も多く犬や猫の散歩に適しています。
このタキシード猫はペット用の位置情報タグをつけています。



ときどき窓猫も観察されます。

■サンフランシスコ

週末にMKを誘ってサンフランシスコに行くことになりました。
彼のアパート前で待っていると前をサイバートラックが横切りました。
何が走っていてもおかしくないのがここシリコンバレーですが、サイバートラックだけはいまだに目で追ってしまいます。

サンフランシスコに行く目的の一つがサワードウカフェに行くこと。
我が家お気に入りのサワードーブレッドベーカリーカフェ「Tartine」は外せません。
週末ということで店の前には長蛇の列ができていました。
テイクアウトの人もカフェ利用の人も、皆カウンターでお会計を先に済ませます。


わたしたちの前に並んでいた男性は、お利口そうなおとなしい犬と一緒でした。
階段を上がったところがレジですが、レジ前で犬は男性の足に挟まれてじっとしています。
彼らはカウンターでパンを買って帰りました。
どんなにおとなしくていい子でもカフェに犬連れで入ることは禁止されています。

昔工場だった建物を利用した店内は天井が高くて明るく開放感があります。


わたしはアボカドトースト。
TOは左の「トビコ乗せスクランブルドエッグトースト、MKはピリ辛のチリビーントーストを選びました。

併設の工房とショップにはグラスや陶器など日本製品が多いせいか、日本のカルチャーをよく取り上げます。
そういえば、日本語が書かれたTシャツを着ている人をここでは普通に見かけます。

近所にヒスパニック系の「Mi Tienda」というスーパーがあるのですが、よく見ると看板に日本語で「私の店」とあります。
このスーパーはチェーン店で、調べたところ「私の店」という表示は当店のみ。
関係者に日本人がいるのかもしれません。

サワードーのタルティーヌ(オープンサンド)で軽い朝食にした後、MKがリッチモンド地区にあるおすすめのコーヒーショップに連れて行ってくれました。

わたしが注文したコールドブリューを入れてくれている模様。
ちなみに私のオーダーだけものすごく時間がかかりました。


軽く3杯分はあったので持って帰り次の日いただきましたが、香りは強く美味しく飲めました。

この日は久しぶりのサンフランシスコをドライブする予定で、ルートを決めず狭い坂道や道端でホームレスが集合しているテンダーロイン地区などを通り抜けていったところ、痛車というにはあまりに完成度の高い塗装カーを発見。
日本でもこれほどの凝った塗装を(『弍号機』という正確な表記を、しかもBMWに)するほどの熱心なエヴァンジェリストはいないかもしれません。

サンフランシスコ市庁舎横のシビックセンタープラザを通り抜けます。


その後とんでもない坂道をうねうねと走破し、サンフランシスコ湾沿いを左回りすることに。
これは以前当ブログでもご紹介したリバティシップ「ジェレマイア・オブライエン」です。
前回訪問した時には確か右舷を接岸していたはず・・・。
船体も綺麗になっているし、もしかしたら改装して場所を移したかもしれません。
もう一度行ってみようかな。

休憩のためお馴染みのフォートメイソンに車を停めました。
前回ご紹介した陸軍輸送部隊の建物群が立ち並びます。


前回我が家的に好評だった画材店をぶらぶらしました。
スノーボール(アメリカではスノーグローブ)はふつう雪を表すものですが、ここでは「フォグ・グローブ」です。
ゴールデンゲートブリッジは冗談抜きでこんなふうに霧に覆われています。


この日サンフランシスコ名物の霧はサットロ・タワーを隠すようにここで止まっていました。


陸軍時代に使用されていた鉄製の扉などができるだけ当時の形で残されています。
わたしたちのお気に入りの画材店はこの左側です。

建物の間にはかつて輸送に使われた貨物車の引き込み線の跡が残されています。
この先の港からアメリカ軍は兵と物資を送り出していました。
たとえば・・・。

■陸軍女性部隊

THEY ALSO SERVED(彼女たちもまた、従軍した)
「戦争中であっても、陸軍に女性の居場所があるとは信じ難いと思う人が多くいました。」

—— ハリエット・グリーン・ロビンソン(陸軍女性部隊)

「この港において、女性にこなせない仕事など実質的に存在しませんでした。」

—— ジェームズ・W・ハミルトン大尉

1943年2月、西海岸で初となる陸軍女性補助部隊の部隊がサンフランシスコ港に到着しました。

『彼ら(男性)をいち早く送り返そう——WAACに入隊を』

——目を引く陸軍女性補助部隊(WAAC)の求人ポスターにはそう書かれていました。同じメッセージは、マーケット・ストリートにある陸軍募集センターからほど近いサンフランシスコのユニオン・スクエアの看板にも掲げられました。
『巡回スカウト(勧誘員)』たちは、通りやケーブルカー、店舗や劇場などで他の若い女性たちに声をかけて入隊を勧誘しました。

上写真は、地元のアーティスト、ベニアミーノ・ブファノが描いた1943年の求人ポスター。
描かれた顔は、陸軍女性補助部隊が多民族(ダイバーシティ)を目指していたことを表しています。
しかし実際は軍の他の部隊と同様、アフリカ系アメリカ人女性は人種分離された部隊で勤務していました。


水陸両用車を高圧洗浄する女性(1942年)

第二次世界大戦中の銃後における女性の労働——防衛工場や、新たに設けられた非戦闘軍事部隊での労働——は、戦争遂行において不可欠なものでした。
フォートメイソン基地およびサンフランシスコ乗船港全体で、1,200人以上の女性が多様な役割を果たし、男性兵士を戦闘任務へと送り出しました。
彼女たちは社会通念に立ち向かい、輸送部隊の車両の運転や修理を行い、暗号作成・解読官、法廷記録官、医療技術者として働き、その他多くの重要な任務を全うしました。


ノーブル・リー・フィールズは朝鮮戦争中、フォートメイソン上部にあるホステス・ハウスで働き、兵士とその家族が長期にわたる別れや再会に備えられるよう支援しました。

この日の夕食は我が家がベイエリアでベストチャイニーズと(今のところ)評価したサンマテオのシェ・シュー(シューの家)に決めていました。
開店直後に飛び込んだので一番乗りです。


ちなみにこの地域の気温は20度。
着いた頃は寒い日と暑い日が交互にやってくる感じでしたが、いずれにしても湿度は低いので過ごしやすい気候です。
今回空港の入国管理で「ここで何するの?」と聞かれ「ファミリー・リユニオン」と答えたのですが、「避暑」と答えても良かったかもしれません。


ここに来たら外せない麻婆豆腐とネギ入りパンに冬瓜のスープ、ご覧のバジルチキンを注文しました。
食べ残したものはアメリカではボックスをもらってテイクアウトすることができます。


日曜日の朝、トレイルではなく近隣を散歩したら、「ムービングセール」の貼り紙発見。
アメリカ人はよくガレージ前や玄関前で要らないものを売りますが、これを「ガレージセール」「ヤードセール」といいます。
引っ越し前に荷物を減らしたい人が行うのは「ムービングセール」。
わたしたちもボストンに住んでいた頃は近隣のセールをよく冷やかしたものです。
この頃ヤードセールで買った立派な果物かごは今でも現役です。

この日はセール二日目で、夜中に持って行かれても構わないものが外に出されていました。


ところで、部屋のテレビでは映画をノンストップで(CMはありますが)放映する「ムービーハブ」というチャンネルがあり、何度も「K-19」や「ミッドウェイ」「スタンドバイミー」が流れているのですが、そのうちの一つ「タイタニック」を眺めていて映画のある「仕掛け」に気がついてしまいました。
ジャックが甲板を歩いていくシーンで一瞬コマを回す少年とそれを見る二人の紳士というカットが現れるのですが、これ実は

実際のタイタニック上で撮られた一コマの再現だったんですね。

オートミールに卵とヨーグルト、ニンジンとナッツ、クランベリーを混ぜて焼く甘くないケーキ作りに最近はまっています。
この日は午後の軽食にこのケーキとカリフォルニアの新鮮なベリー&チアシードを庭のテーブルでいただきました。


続く。



 

錨の模型と各種内燃機関〜海洋大学百周年記念資料館

「明治丸」から降りた後、その横に併設された「100年記念資料館」を見学しました。
商船大学開学100周年を記念して1978(昭和53)年にオープンした海事関係資料の展示館です。
同行の大学関係者の方はここにも一度も立ち入ったことがなかったそうです。

 

■ 錨の模型

上写真は展示の中でも際立って目立つ錨の模型です。
左端はチェーンケーブルで、左上から名札が貼ってあるのですが、右から四番目の錨に名札がないことから調べていて、展示のミスに気がつきました。

この名前のないアンカー、Martin's Anchorではないですか?
ちなみに日本の戦艦三笠の主錨としても有名で、日本では十山字型錨と呼んでいました。
ところが「マルチンスアンカー」の名札はその下の「ストックアンカー」(明治丸が搭載していた)に振られてしまっています。
どうやらこの模型、「上段のラベルが一段下がって貼られている箇所がある」のです。
気づいてしまったら仕方ない。片っ端から合っているかどうか調べてみました。

左半分は全部正しく表示されていました。

「アリソンアンカー」
19世紀後半(1880年代頃)にイギリスのアリソン(Allison)社などによって開発・特許取得された、最初期のストックレスアンカー(無柄錨)の代表的なデザイン

「スクリューアンカー」
泥や砂地にねじ込んで固定する特殊な錨

「スミスアンカー」
19世紀後半にイギリスで開発された初期の代表的なストックレスアンカー(Smith's patent anchor)

「グルソンズアンカー」
19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツの著名な鋳鉄・兵器メーカーであった「オットー・グルソン社(Otto Gruson & Co.)」が開発・特許(D.R.P.)を取得した、歴史的なストックレスアンカー
平たくて横に広い巨大な爪(フルーク)と、その爪の付け根(クラウン)にあるがっしりとした長方形の平らな安定板が特徴

「マッシュルームアンカー」
泥底に埋没させて、灯台船や浮標(ブイ)を長期固定するために使われる錨

「マルチンス(マーチンス)アンカー」

名札がつけられていなかった錨です。
1869年にイギリスのクロード・マーチン(Claude Martin)が特許を取得した、初期の「反転式ストックレスアンカー(Self-canting anchor)」の代表格で、頭部(シャックル側)にある平たくて緩やかなV字型のストック(横棒)と、左右が一体となって回転するフラットな爪(フルーク)が最大の特徴です。

「グラブネルスアンカー」

岩場やサンゴ礁に引っ掛けるための「四爪錨(Grapnel anchor)」。

「シングルアームアンカー」

片側にしか爪(アーム)がない、泥地や一方向への引張りに特化した特殊なストックアンカー。

「トロットマンアンカー」
1850年代にトロットマンが開発した、シーソーのように爪が動く特殊なストックアンカー。

「ストックアンカー」

「有柄錨 / ゆうかんびょう」「コモン・アンカー(Common Anchor / 普通錨)」ともいい最も一般的なストックアンカーの呼称で、「明治丸」が現役時代や係留練習船時代に使用していた錨と同タイプ(同系統)です。

現在、東京海洋大学・越中島キャンパスの百周年記念資料館の前には、明治丸をポンド(係留池)に固定するために使われていた本物の巨大な錨が「アンカーの塔」としてそびえ立っていますが、あのモニュメントになっている錨もまさにこの「アドミラルティ型(コモン・アンカー/ストックアンカー)」です。


「チザックスアンカー」

9世紀末にイギリスのテイザック(Tyzack)社が開発した、爪の中央に独特の突起があるストックレスアンカー。

「ホールズアンカー」
1885年にホール(Hall)が特許を取った、現代の商船でも最も広く使われている超定番のストックレスアンカー。

 

資料館の一階部分の壁際を占めるのは主に船関係の機械類。
船舶関係者にとってはまるで宝の山状態・・かもしれません。

■内燃機関関係

今まで船の博物館を日米あちこちの展示によって見てきたわたしには、これが内燃機関であることくらいは一目でわかりました。

「三段膨張蒸気機関」

実はこの展示の前にある表彰状が何を表しているかというと、この機関が日本の産業遺産とされているからです。

「三段式」とは、左から第一(高圧)・第二(中圧)・第三(低圧)のシリンダのこと。
ボイラで作られた高圧の蒸気は一段目(写真左手)のシリンダに送られてピストンを往復運動させ、二段目へと排気されます。
ここでも同じ仕事を行い三段目へ。
こうして順次クランク軸を回した後、コンデンサに導かれて水に還り、再びボイラに供給されるという仕組みです。

ここにあるのは現存する唯一の同機関で東京海洋大学の前身、東京商船大学学長だった菊植鉄三郎氏が設計し、1936 年に石川島造船所で製作されました。

「往復蒸気機関(リンク式)動弁装置模型」

ガラス扉に収められているので中心部分が見えませんが、往復蒸気機関におけるリンク式動弁装置の模型です。
「往復蒸気機関」は「レシプロ」と言った方がわかりやすいかもしれません。
気筒(シリンダー)内に蒸気を送りこの圧力で中のピストンに往復運動を与え、これを回転運動に変換して推力とする機関のことです。

この模型は蒸気の気が「氣」になっていることや、製作担当した神戸の内山模型製作所のプレートが右左に横書きしていることから、大正期から昭和初期にかけて商船学校で使用されていたものだと思われます。

●リンク式動弁装置とは?

この模型による学習目的であるところの「リンク式動弁装置」について説明します。
一言でいうと、「蒸気機関(エンジン)の『前進』『後進』を切り替え、さらに『スピード(パワー)』をコントロールするための仕掛け」です。

蒸気レシプロ機関は、シリンダーの中に蒸気を交互に送り込んでピストンを往復運動させます。
この「蒸気を送り込むタイミング」を調整するフタ(弁=バルブ)を動かす仕組みを「動弁装置(バルブギア)」と呼びます。

 ●なぜ「リンク(Link=輪・繋ぎ)」が必要なのか?
船や機関車は、当然ですが「前進」もすれば「後進」もできなければなりません。

◯ピストンを前進方向に回すためのタイミング(前進用偏心輪)

◯後進方向に回すためのタイミング(後進用偏心輪)

この「前進用」と「後進用」の2本のロッドを、弓型にカーブした1本の金属プレート(リンク)の両端に繋ぎます。
これが「リンク式」と呼ばれる理由です。

●どうやって動かすのか?
(模型の右側の丸いハンドル部分)
模型の右側に、真鍮製の歯車と手回しハンドル(丸い手輪)が見えます。
このハンドルを回すと、リンクの角度や位置が「ググッ」と上下にスライドします。

ハンドルを一方に回しきると: 「前進用」のロッドがバルブと直結し、エンジンは前進します。

ハンドルを逆に回しきると: 「後進用」のロッドが直結し、エンジンは後進(バック)します。

中間の位置にすると: 蒸気の入る量が細くなり、スピードを落としたり(カットオフの調整)、ニュートラルの状態にできます。


この「リンクが傾くことで、複雑なバルブの往復タイミングがどう変化するか」は、教科書の図面(2次元)だけでは非常に理解しづらい部分なので、右側のハンドルを回してリンクを動かし、それに連動して中央のピストンやバルブ(スライド弁)がどう連動して動くのかを、当時の商船学校の学生たちは体感しながら学んでいたのです。

「焼玉機関」

「ポンポン船」という言葉を聞いたことがないでしょうか。
明治時代末期から動力化された小型漁船や渡船にはこの焼玉エンジンが搭載されており、ポンポンとリズミカルな独特の爆音を立てて航行したことからこう呼ばれていたのです。

焼玉エンジンは19世紀にイギリスで開発された2サイクル機関エンジンです。
シリンダの頭頂の焼玉をバーナーで加熱しておき、その内側に燃料を噴射して着火始動させることからつけられた名称で、点火後は圧縮熱と爆発熱で運転します。

1、焼玉  2、シリンダ 3、ピストン 4、クランクケース

 

「空気噴射式ディーゼル機関」

「ディーゼル」はそれを発明した人物の名前です。ご存じでした?

ルドルフ・クリスティアン・カール・ディーゼル(1858-1913)

「スルザー」はスイスに本社をもつ機械メーカーで、紡績機などを製造していましたが、ディーゼルがエンジンを発明すると特許を得て販売を始めました。
つまり、この「スルザー・ディーゼルエンジン」は世界初のディーゼルエンジンです。

● ディーゼルエンジンとは
ピストンで空気を燃料の発火点以上に圧縮加熱し、そこに燃料を噴射して自己発火させ、これにより生じた燃焼ガスの膨張でピストンを押し出す「圧縮着火拡散燃焼機関」です。
ディーゼルエンジンの本質は「点火装置が不要な内燃機関」といえます。
展示されているディーゼル機関は1923年(大正12年)スイスから輸入したもので、1945年まで学生の実験実習に使用されていました。

「B&Wディーゼルエンジン(模型)」

1912年にデンマークのB&W社製のディーゼルエンジンの試運転は大成功を収め、ディーゼルエンジン全盛時代の幕開けとなりました。
これは学習用の模型で、上記のリンク式の模型制作と同じ内山模型製です。

ディーゼルエンジンのわかりやすい説明。

教材として使われていたときと同じように、「前進」「停止」「後進」と動かすことができます。

「三菱UEディーゼル機関」

正式には
「三菱6UEC60LA機関」の模型です。
こちらは故障中でスイッチを入れることができなくなっていました。
この機関のタイプを「UE型」と称しますが、先ほどの「Sulzer型」(スイス)「B&W型」(スェーデン)と並んでこの三つが世界の三大ブランドだそうです。

現在の大型商船の主機関には、大出力で効率が良く、低質重油燃料を使うことができる
「2ストロークディーゼル機関」
が多く採用されています。

2ストロークエンジンは1往復(行程換算2回 (=2 stroke))で1周期を完結するエンジンのことで、ピストン1往復(クランクシャフト1回転)ごとに燃料が燃焼します。

上昇行程 : ピストンが上昇する間に排気と吸気の圧縮を行う
下降行程 : 燃料の燃焼(爆発)によりピストンが下降し、その後半で排気を行う

ここまでの行程で動力伝達軸であるクランクシャフトは1回転することになります。


三菱は戦前に開発したMS型機関の吸気排気方法を変更してUE型2ストローク機関としました。
このLA機関長行程機関(Long Stroke)機関の代表的なもので、さらに長行程機関では1筒あたりの出力が5000馬力(PS)以上も可能です。

続きます。

「アメリカン・サムライ」~日系アメリカ人と第442部隊

空母「ホーネット」艦上博物館でみた内容をまたもやお話しします。
日系アメリカ人と442部隊については、去年の夏、サンノゼの日系日本人博物館で見た展示とともにお話ししていますし、その前には映画「二世部隊」、さらには「俺たちの星条旗」(アメリカン・パスタイム)を扱った時も触れました。

わたしが日本人で、日本とアメリカの戦争に興味があり、アメリカで年の6分の1を過ごす限り、日系アメリカ人と彼らの戦闘部隊である442部隊への興味は尽きません。


というわけで、空母「ホーネット」の一室を利用した

「第二次世界大戦における日系兵士:祖国への貢献」

というコーナーをご紹介していこうと思います。


日系兵士コーナーは、「ホーネット」のハンガーデッキから左に見えている
小さな階段を登ったところの部屋にありました。
なぜかこの空間には天井から羽根つきのタンデム自転車がぶら下がっていましたが、
この自転車についての説明はどこにもありませんでした。

日系人兵士について説明しようとすればまず日系人への迫害を語らねばなりません。

以前も説明したことがありますが、アメリカ政府は対日戦争が始まった時、
以前から日系人たちのアメリカ合衆国への忠誠は深く、
反動的な分子となる危険性はないという報告を受けていたにも関わらず、
彼らを「危険」であるとして財産や土地を没収した上で収容所に送りました。

この決定に大きく関与したのが、原爆投下にも関わり、さらには投下後の

「原爆の投下によって戦争を終結させ何百万もの命が救われた」

という発言で有名なヘンリー・スチムソン陸軍長官です。


日本人が収容された後、やれやれ、せいせいしたわいとばかりに、

「ジャップは二度とここに戻ってくるな!」

というプレートをわざわざレジに置いて得意気に指差すアメリカ人。
こんな爺さんが戦争が終わるまで生きていたかどうかも疑問ですが、当時、このような「ヘイト写真」を嬉々として残したアメリカ人たちは、その後公民権運動を経て「人種差別は悪いこと」になったとき、この過去をどう思ったでしょうか。

「家に帰れと言われても、ほとんどの日本人家族にとってそれは難しかった」

と説明があるように、日系人たちの経済地盤はもうすでにこちらにあり、日本には帰るべき場所がもうなかったのです。

ところで昨今、在日韓国・朝鮮人が現在主張する”ヘイト”の構図と、このころの日系アメリカ人の受けたヘイトはこの部分においては重なりますが、当時の日系人たちはアメリカの参政権を手に入れて政治を支配しようとしたり、反米教育をしている学校に政府の金を出させようとしたり、ましてや報道機関や政府に帰化人などを送り込んで、「内部操作」することなどなく、ひたすら米国に忠誠を誓う良民であろうとしていたことを考慮するべきである、と私見を述べておきます。

かつて日本に対しシリアの難民を受け入れろという、なぜかEUからではなく国連の要望がありましたが、 英語すらできないレベルの難民が、果たして日本でどうやって生きていけるのでしょうか。
一から日本政府が手取り足取り面倒を見るしかないわけですが、日本にはすでに朝鮮戦争の難民をなし崩し的に受け入れさせられており、今それが問題になっているわけで・・。 


さて、かくして日系アメリカ人たちはカリフォルニア中心にあった各収容所に送られました。
まるで家畜を送るようなトラックの荷台に立ったまま乗せられて・・・。
右下はワイオミングにあったハートマウンテンの収容所を空撮したもの。

幌付きのトラックから降りてくる一団は特に疲労困憊している様子です。

「ベイエリア(サンフランシスコ周辺)からの一行だな」

夏でも寒いサンフランシスコに住んでいるので暑さにすっかり参ってし待った人々。
内陸は寒暖の差が激しく、ハートマウンテンの冬は零下30度にもなりました。
これも寒暖差の少ないカリフォルニアの日系人には堪えたでしょう。

日系人が収容所に荷物を持って行った「行李」。
一人につきたった一つのトランクしか持っていくことを許されませんでした。

収容所での彼らの様子です。

右上の家庭には仏壇がありますが、飾られている写真は米軍の制服を着た男性で、
どうやらこの収容所から第442部隊に出征して戦死したようです。

私物を持ち込むことが許されなかった収容所の日系人たちは、工夫を凝らして
必要なものを自分たちで製作しました。
この木製の道具入れは、廃材を集めて作ったものです。

彼らの住環境がいかに過酷だったかは、たとえばトイレにも見ることができます。
仕切りのない、もちろん水洗式でもないこの板に穴を開けただけの貯蔵式トイレは、ナチスのユダヤ人収容所にあったものと寸分違うことなく同じです。

戦後ユダヤ人収容所が世界に非難され、また日本軍の捕虜施設であったという虐待行為を理由にたくさんのBC級戦犯が処刑されましたが、戦後一般人に対するアメリカのこの非人道的行為に対し、なんの咎めもありませんでした。
さすがは戦争に勝った国だけのことはあります。(嫌味です)


アメリカで生まれた彼らの祖国に対する感情は複雑です。

「正しいのか、間違っているのか。我々の祖国は」

「我が国の信義、誠実、そして正義と公正」

「我々は誇りを持って祖国に仕えよう」

彼らの置かれた状況からは、まるで悪い冗談のようなこれらの言葉・・。

合衆国の歴史は好きな授業だ。
我々学生は常に教師のもっとも普通な自由、独立、平等についての意見に対し食ってかかるだけの用意ができている。

というキャプションと共に「先生?」と「食ってかかる」生徒。
教師は、こうつぶやいています。

「自由か、さもなくば死を我に与えよなんて誰が言ったんだろう?
あ~、まあいいや、どうでも。
座りなさい、ジロー、君の答えはわかってるから」

マンザナー収容所と歩哨に立つアメリカ人兵士。
当たり前ですが、彼らは銃を持っていました。
もし脱出しようとするものがあれば、撃つためです。

収容所はたいてい人里離れた場所に建てられ、その地域にはアメリカ人が立ち入ることさえ禁じられていました。

「止まれ  制限区域
日本人を祖先にもつ住人のための収容所があります
歩哨警備中」 


442部隊の一員であった息子のローリーのために、母親であるミネコ・サカイが製作した大作キルトです。
442部隊と、諜報部の旗の真ん中には442大隊でヨーロッパ戦線に出征中の息子の写真があります。

二世の出征は志願制でした。
敵国の血をもつ二世たちに、アメリカ政府は忠誠を誓わせ、戦争に参加することによってアメリカ国民として認めるという「踏み絵」を踏ませたのです。



多くの二世たちがアメリカ国家に忠誠を誓いました。
写真は、ワイオミングにあったハートマウンテン収容所から442部隊に加わることを表明した若者たち。
全員がスーツを着ていますが、そのための儀式でも行われた後でしょうか。



そして彼らはアメリカ陸軍第442連隊となったのです。



442部隊が転戦した場所を表した地図。
サレルノ、モンテ・カッシーノ、ベルベデーレ、ピサ。
フランスではブリュイエール、どれも第442連隊の名前と共に刻まれる地名です。
そして、ブリュイエールの後、ボージュの森で孤立していたテキサス大隊を多大な犠牲を払って救出するという大変な戦果を上げます。


「Happines is being rescued.」

とある、救出されたテキサス大隊の皆さん。
このとき、テキサス大隊の少佐が第442連隊を見て

「ジャップの部隊なのか」

と軽く言ったところ、第442部隊の少尉が

「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」

と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話があります。
まあ、多大な犠牲を払って命を助けてくれた人に、その言い草はないわ。

栄誉勲章を受けた二世部隊のヒーローたち。

左は、イタリアでの戦闘で負傷したダニエル・イノウエ大尉
戦後政治家となり、上院議員となってアメリカ合衆国に尽くしました。
安部首相のアメリカ議会での演説の一節に

「この場にイノウエ議員にいてもらいたかった」

という言葉があったと聞きます。
その後ハワイのワイキキ空港は「ダニエル・イノウエ空港」となりました。

真ん中が、このブログでもご紹介したことのある、スパッド・サダオ・ムネモリ1等兵
第100大隊の戦いで、至近距離に落ちた手榴弾に覆いかぶさって、戦友をかばい戦死しました。
一番右でクリントン大統領から叙勲されているのは、これもこのブログで似顔絵を描いたことのある、バーニー・ハジロ上等兵



クリントン大統領から2000年、ホワイトハウスでオナーメダルを授与しています。
ハジロ氏は2011年、94歳で亡くなっていますから、この受賞のときには83歳です。


クリントンといえば、1993年に大統領名義で、アメリカ政府は日系アメリカ人たちに公式の謝罪を行っています。
過去の不幸な出来事への謝罪と、戦後の日系人たちの社会における活躍を賞賛し

「これからも一緒にすべてのものに自由と正義が保証される祖国を作りましょう」
と結んでいます。


日系人によるインテリジェンス部隊が使用していた日本軍の資料。
こういう漢字もちゃんと読めたということなんでしょうか。



第442連隊を描いたアメリカンコミック。
彼ら三百人のつわものは、解き放たれた「アメリカン・サムライ」の波となり、恐れなど微塵もなく、最後の瞬間を突破していった。そして咆哮の鳴り響く中、まるでツナミのように二世たち、寸分の忌避感も持ち合わせぬ彼らは稜線を駆け抜けていった。
"GO FOR BROKE!"

横にある説明には、この「テキサス大隊=ロストバタリオン救出」が、アメリカ軍の歴史において10大戦闘のうちの一つであるということが書かれています。

ロストバタリオンのヒギンズ大尉とレオナード少佐。

日系諜報部員と、100連隊、442連隊の兵士たちを思うポストン収容所の日系人たち。

日系収容所で「よく見られた」光景の一つ。
息子の戦死の報とオナーメダルを携えて年老いた両親の元にやって来る陸軍の従軍牧師です。

442大隊の活躍をデディケートして、サンフランシスコ出身の隊員とその家族に贈られたオナーメダル。

先ほど、ビル・クリントンの謝罪声明文がありましたが、こちらはジョージ・ブッシュから出された謝罪声明です。
なぜ二代続けて大統領が声明を出したのかはわかりませんが、おそらくこのころ、相前後して日系人たちに対する賠償の問題が片付き、名誉の回復が遅まきながら公式に行われることとなったという事情によるものでしょう。

日本観光をする日系アメリカ人兵士たち。後楽園(多分岡山の)に行ったようです。

この写真がいつ撮られたのかがわからなかったのですが、日系部隊が結成されたのは日本との開戦以降のことですから、終戦後、占領軍として日本に行ったときのものでしょう。

日本の血を引く二世でありながらアメリカ合衆国の一員として日本と戦い、降伏した日本に足を踏み入れた時、彼らはどんな感慨を持ったでしょうか。

続く。

 

「日本人 朴敬元」パク・ギョンウン〜女流パイロット列伝~


このパク・ギョンウンの情報は今回見学したヒラー博物館にあったわけではなく、中国女性で初めて飛行免許を取ったキャサリン・チャンのことを調べていて、ふと「日本最古の女流飛行士は誰なのだろう」と思いつき検索したところ、何人かの日本人名のなかに彼女の名前を発見しました。
彼女がパイロットの資格を取ったのは1927年。
日本最初の女流飛行家兵頭精(ただし)は、1921年に日本に航空取締り規制が布かれ、操縦免許性になった一年後の22年に免許を取っていますから、その5年後です。

当時朝鮮半島は日本に併合されており、パクもまた「朴敬元」という日本国民であったわけですが、朝鮮半島出身者の女性としては、実は彼女が先駆となります。

パク・ギョンウンは、1901年、日本併合下の韓国、大邱(テグ)で、家具屋を営む家に生まれました。
韓国ではアメリカ人の経営するミッションスクールを卒業し、卒業後の1917年、来日します。

日本に到着したパクは横浜市の南吉田に居を構え、そこから笠原工芸研修所に2年半通いました。
ここで彼女は養蚕についての職業訓練を受け、その間横浜の「韓国キリスト教教会」に通って、クリスチャンになっています。
この日本での日々に何があったのかはわかりませんが、どうやらこの間に彼女は「飛行士になって空を飛びたい」という夢を持つにいたったようです。
彼女はいったん大邱に帰ってそこで看護学校に入りますが、それは、飛行士になるのに必要な飛行学校の学費を調達するのが目的だったのでしょう。
この看護学校は、慈恵医大が韓国の大邱に創設していたもので、現地の人材を育成するために日本が出資した機関でした。

1925年1月。
彼女は蒲田にあった飛行学校に入学するためにまた戻ってきます。
同胞である韓国出身の男性パイロットがここで教官を務めており、彼女はこの男性に指導を受けることを希望していたようです。
もしかしたらこの男性との出会いが、彼女の飛行士を目指した動機だったのではないかとも思われるのですが、

この、韓国人で最初に飛行士になった人物であるチャン・ヨンナムもまた、当時江東区の須崎にあった飛行学校を優秀な成績で卒業し、非常に卓越した技術を持っていたパイロットでした。
しかし彼女が戻ってくる2年前に、彼は韓国経由で中国に亡命してしまっていました。
この人物についてのウィキペディアは韓国語と英語しかなく、したがって亡命の原因を

「関東大震災で朝鮮人の虐殺を目にし、日本と戦うことを決意した」

とし、彼は北京に住んで韓国独立運動をしたということになっていますが、おそらくこれは後付けの創作であろうと思われます。
そもそも、朝鮮人が虐殺されている現場で、自身が朝鮮人である彼はどこでどうやって高みの見物を決め込んでいたのでしょう。
彼自身に身の危険はなかったのでしょうか。

独立運動家としての彼の名前は無名ですし(おそらく韓国人も知らないのではないでしょうか)後に墜落死した時には、彼は若干29歳で当時中国の飛行学校の校長をしていたといいますから、彼が「独立運動」をしていたというのは現実的なものという気がしません。
これもまた韓国人による角度がついた記述であることを割り引いて考えた方がよさそうです。

さて、蒲田でチャンの指導を受けようとしていたパクの目論見は外れましたが、彼女の資金を募るために、東亜日報が記事を書き、それによって集まった募金で彼女は飛行学校に入学することができ、二年後に三等免許、さらにその一年後に二等飛行免許を取得することができました。

ところでこの東亜日報というのは民族系新聞社で、日本統治時代の1920年に創刊されています。
現在の韓国人というのは、日本統治時代を否定しなくては精神が立ちいかないくらいの
峻烈な反日教育を受けていますから、統治によって

「民族のすべての固有の文明が奪われた」

くらいのことを学者であっても平気で言ってしまいます。
実際、2013年9月24日付のニュースで、

「日帝は朝鮮を強制的に併合した際、1911年までの一年間の間に初代朝鮮総督の寺内正毅が軍警を動員し、全国の20万冊の史書を強奪したり燃やしたりし、さらにその中から珍しい秘蔵史書を正倉院や東大秘密書庫のようなところ
奥深く隠した。
つまり日帝は古朝鮮以前の古代史を根こそぎ奪ったのである」 

などという(発言者は正倉院が何であるか全く知らないのではないかと思われる)都市伝説レベルの発言を考古学者がしているのを知り、呆れました。

しかし皆さんもご存知の通り、統治下の朝鮮半島には歴然と証拠として残るダムや鉄道のほかに、教育機関や新聞社、ソウル大学やパクが通った看護学校のような教育機関が日本政府によって創設されており、しかも朝鮮人の有力者が後押しして、モットーの一つが「民族主義」であるような言論機関を朝鮮人は日本で迫害されるなく作ることができたということなのです。
というか、百の言葉を尽くさずとも、

「現地民のための学校があり、現地民経営の新聞社があった」

これだけで、日本の統治がどんなものであったか明白ではありませんか。

過去、韓国で、統治時代当時を知る95歳の老人が、

「日本の統治時代はよかった」

と言ったところ。それに激昂した若い男が老人を殴り殺し、それに対して国民が「よくやった」と喝采を送るという事件がありました。
実際、

「過酷な日本の植民地支配で何万人もの人が虐殺された」

などというトンデモ話を子供のころから信じ込まされているのが韓国人です。

今回パクについて書かれたいくつかの記述を見ましたが、皆お約束のように「偏見」「差別」を跳ね返して、などという文章を必ず付け加えています。

しかし、実際に日本という国が、統治下の朝鮮人にとって、偏見や差別と闘い続けなければ何もできないような国なら、そもそもパクのような朝鮮半島出身の、しかも女性が
飛行士になることなどできたでしょうか。

朝鮮半島生まれの若い女性が、わざわざ日本に来て職業訓練を受け、さらに日本で飛行機の免許を取って、飛行競技大会にも出場し三位になり、それで陸軍の中古のサルムソンを購入することすらできたのです。

現在の韓国人の言う「峻烈な差別と虐殺」というのは、「被支配」側の被害妄想、よくて少なくとも何か特殊な事件の拡大解釈に過ぎないとしか思えません。
(当時の日本に差別がなかったとは言いません。いつの、どこの国にも差別があるように普通にあったことは確かです)

彼女が憧れていた(らしい)朝鮮人のチャン・ヨンナムも、日本で免許を取り、日本の飛行学校で教官を務めて日本人を教えていたわけです。
これも彼らが言うほどの差別があればありえないことでしょう。

さて「最初に飛行機に乗った自国民」は文句なくその国にとって英雄のはずです。
現在の韓国人というのは、反日から来る歴史認識を拗らせて、こういう人たちを民族の誇りとすることすらできないジレンマに自らを追いこんでしまっているように見えます。
彼らを誇ると、「日本」がその「名声」の形成において大きな意味を持ち、さらに、日本で彼らは必ずしも迫害されていたわけではなかった、ということを語らなくてはならなくなってしまうからです。

その挙句、日本の総理大臣を殺害したテロリストが自国の誇るもっとも偉大な英雄になってしまうという歪んだ価値観しか持てないのが、「韓国という病」における最も憂うべき後遺症だと言えましょう。

パクはつい最近まで「韓国初の女流飛行家」であるということになっていました。
しかし、その「初めての飛行家」が、当時「日本人であった」というのは、そんな「韓国病」の彼らにとっては耐え難い屈辱であったようです。

そこで韓国は、彼女ではなく、「中国軍で飛行免許を取った」というキ・オククォンにいつのころからか「初めての韓国人女流飛行家」のタイトルを与えることにしたようです。
「与えた」
というのはあくまでわたしの想像です。

2005年に「青燕」というタイトルでパクの人生が映画化される前まではまだ「初の女流飛行家」はパク・ギョンウンであるということになっていたからです。
しかしなぜか「急に」キの方が先であったという説が生まれ、wikiもそうなりました。

そのため映画の興行元は、「韓国で初めての女流飛行家」というパクのキャッチフレーズを全ての媒体から削除しなくてはならなくなってしまったそうです。
もちろんわたしは観ていませんが、どんなに映画上でパクの人生を、

「虐げられた民族の苦しみを跳ね返し飛んだ」

ということにしたところで、現実にに日本で免許を取り、日本の人たちに見送られて、日本の国旗を振りながら最後の━━彼女が命を失うことになる━━最後の飛行に飛び立ったという事実がある限り、日本を悪く描くにも限界があったのだと思われます。

そしてやはり「親日的である」の烙印を押され、映画の韓国での興行は失敗しました。
パクの名前もまた、全くと言っていいほど今日に至るまで祖国では無視されています。

1933年。
32歳の彼女は、親善を目的とした訪問飛行のため、羽田を飛び立ちました。

日韓関係なく、成功すれば彼女は初めての日本海横断飛行した飛行士となるはずで、羽田での見送りは官民多数の大変盛大なものであったといわれています。
ところが、この飛行に関しても、英語(つまり韓国側の記述)によると、

「日本政府のプロパガンダにより計画された、満州への飛行であった」

となってしまっています。
満州国をだけ対象に日本がプロパガンダをするのなら、普通に考えて何もわざわざ韓国人の女性パイロットを飛行させる意味がありますか?

東京―ソウル―満州をつなぐ線を、朝鮮民族である彼女が飛行することで政府が「八紘一宇」「五族協和」のシンボルとしようとしていたのは確かです。
尤もどんな政府事業も悪意一本で解釈すれば「プロパガンダ」でしょうけどね(投げやり)

さらに穿った見方をすれば、この件で韓国人は、日本ー韓国間の「親善飛行」そして(こちらが主な理由だと思いますが)彼女がこのとき挑戦したところの「日本海横断」という言葉を何が何でも使いたくないのだと思われます。
韓国は歴史的に日本海は存在せず東海であったと主張しているからです。

まあ、国民が最も熱狂する国威発揚が「日本に勝つこと」という国ですからこれもまた致し方のないことなのかもしれませんが、そうやっていちいち自分たちのプライドのために歴史を「修正」していると、必然的に矛盾が生じ、そのうち歴史そのものを見失ってしまうのに・・。 


さて、パクの話に戻りましょう。

冒頭画像はこのときに見送りの人に向けて日本の旗を振るパク・ギョンウン。
おそらく、これが彼女が生きて最後に撮られた写真であったと思われます。
彼女はこの日のために飛行服も、飛行帽も、すべてを新品で買い整え、希望に満ち溢れて羽田を発ちました。
その日は羽田から大阪に立ち寄り、そこで在阪朝鮮婦人会や有力者の激励を受け、ソウルに出発する予定になっていました。

しかし、花束を持って正装で彼女を迎えようと飛行場に詰めかけた人々の前に彼女の飛行機「青燕」はいつまでも姿を見せませんでした。
そして、翌日の捜索で彼女の飛行機が、箱根山中、熱海の玄岳山に機首から墜落しているのが発見されたのです。



彼女が身に着けていた時計の針は、彼女が飛び立ってからわずか42分後に「青燕」が墜落したことを示していたそうです。
内外の新聞はその事故死を大きく報じ、彼女の死の一年後、1934年の8月7日には、追悼飛行が行われています。
この飛行には、飛行学校の後輩であった正田マリエ(豪州から日本人と結婚し帰化)
と、やはり朝鮮人の李貞喜が務め、正田が空中から現場に花束を投げました。

正田マリエ(Geminiによる再構成)

それだけではありません。
日本と韓国の両国にはそれぞれ女性飛行士の協会があるそうですが、その韓国側が30年前に
「わたしたちの先輩パイロットであるパクの遭難場所を教えてほしい」

と訊ねてきたということがありました。
しかしあらためて探すまでもなく、彼女の飛行機が墜落した村の人々は、墜落現場に自然石の碑を立て、ずっと供養を続けていたのです。
それ以来、両飛行協会は姉妹提携を結んで交流しているという話です。

彼女の死後しばらくして、新聞にこんな記事が載りました。

「申栽祐君は 朝鮮女流飛行家朴敬元嬢が 郷土訪問を兼ね日満間の大壮途を決行せんとし途中 惜しくも墜落惨死したのに発奮し、法政大学法科を棄てて、昨年八月千葉第一飛行学校へ入校、亡き朴嬢の意志を継いで 一日も早く内鮮満飛行を決行し朴嬢の霊を慰めんと努力しつつあったが、去年操縦試験に見事パスし 次いで学科試験にも合格し 二等飛行士の免状を下付され いよいよ念願かない 機材購入の準備のため帰鮮の途に就いた」

「日本の統治は正しかった」


95歳のかつて日本人だった韓国の老人はこう言って殺害されました。
今の韓国人には信じられない、それ以前に認めたくないことでしょうが、これが、日本の「統治民に対する扱い」だったのです。

同じ飛行家以外には祖国ではその存在すらなかったことにされている朴敬元。
日本軍の兵士となって特攻戦死を遂げた朝鮮人同胞に対してさえ、「日本の手先となったのであるから敵である」と言い切るような民族ですからそれもむべなるかなというところかもしれません。

その後、日本女流飛行家協会が主導して、熱海梅園の中にできた「韓国庭園」に、朴飛行士のレリーフと「思いは遥か故郷の大空」と題した記念碑が設置されました。
その竟の地が日本でなければ、彼女はこのように祀られることもなかったでしょう。

勝手に死者の魂を忖度する不遜を許していただけるならば、当時日本人であった彼女の霊は、この地でせめて安らかに眠っているのではないでしょうか。



 

クリッシーフィールド〜アメリカ航空史の「離陸地点」おまけ:サンフランシスコの家

■ クリッシーフィールドにおける航空

西海岸滞在中、必ず一度は訪れるのがゴールデンゲートブリッジのSF側にあるクリッシーフィールドです。
これまで何度もここにかつてあった陸軍の飛行場についてお話ししてきたのですが、今回訪ねたところ、また新しい説明が現地に設置されていたので取り上げます。

クリッシーフィールドは、ゴールデンゲートブリッジで結ばれた向こう岸の間のサンフランシスコ湾を臨む平地部分です。
ブリッジの向こうは太平洋です。


沖合にアルカトラズ島。
この写真を撮った頃、アルカトラズの刑務所跡は改装工事を行っていました。
砂浜にはまるで普通のビーチのような格好をしている人がいますが、ここは夏の間も海流の関係でいつも気温は低く、風が強くて肌寒い日がほとんどです。

犬は砂浜を駆け回り、時には水際でびしょ濡れになっていますが、潮の流れが早いので(アルカトラズからの脱出が不可能だった理由)おもちゃを投げて犬に泳いで取りに行かせるゲームをする飼い主はいません。

■航空の冒険時代 クリッシー・フィールド 1919 – 1936

ここに飛行場があった時代、航空技術は飛躍的に発展しました。
1920年代、陸軍航空隊(Air Service)は、アクロバット飛行や空中レースなど、ニュースになるような飛行を数多く行い、軍用航空を宣伝しました。

滑走路のあった時代と今現在の航空写真。
ちょうど滑走路のあったところだけをカットしてあります。


飛行場だった頃。

現在、クリッシーフィールドは芝生の長い滑走路がかつての通りに復元されています。
着陸場の脇の格納庫、ワークショップ、飛行場管理棟、下士官用の兵舎だった建物がかなりの数当時のままに遺されています。
(内部はボルタリングのジムなどに利用されている)

わたしたちがサンフランシスコに来た2000年当時、ここはすでにこうなっていましたが、復元整備されたのは90年代で、飛行場がなくなってからは何年間もただの海沿いとなっていて、搬入のための線路なども残った状態でした。

将校たちは上の崖にある一戸建ての住宅に住んでいました。
ここには日系アメリカ人の志願者(大抵日系人収容所出身)から成る陸軍諜報部隊があり、現在も記念館が遺されています。
(いつもここの見学をしようと思うのですがなかなか果たせていない)
写真は小さい黒板を使って二世兵士たちに日本語の研修が行われているところ。

1923年、第91観測飛行隊の兵士たちが、デ・ハビランド DH-4B 複葉機をクリッシー・フィールド沿いの格納庫に入れている様子。

【ドーン・トゥ・ダスク・フライト(日の出から日没まで飛行)】

看板の一番右は文字が劣化して大変見にくくなっているのですが、1924年にカーティスPW-8で飛び立ち、アメリカ大陸横断を成し遂げたラッセル・モーガン(Maugham)陸軍中尉のことが書いてあります。

まずこの作戦ですが、ニューヨークを夜明けに出発、西海岸の端クリッシーフィールドに日没と同時に到着することを目的にしていました。
当時最新のカーチスを使っても途中5回の給油が必要で、要した時間は21時間47分。

そのため、作戦は

日照時間が最も長い夏至の日
東海岸から出発して沈む太陽を追って

飛行するということで文字通り日没までにサンフランシスコへの到着を可能にしました。
モーガン中尉は第一次世界大戦に出征した戦闘機乗りで、数々のレースで記録を樹立したテストパイロットでもありました。
飛行機の限界を求めてこのチャレンジが行われたのだろうと当時の人々は思っていたのですが、当のモーガン中尉はこんなことを言っています。

「私が日中の明るい時間帯にアメリカ大陸を横断飛行した本当の理由は、航空軍司令官が議会に、太平洋沿岸の人々がいかに無防備であるかを見せつけたかったからです。」

そうだったのか。
もっと議会に軍事費を出させるための軍のパフォーマンスだったってことでおk?

■ 太平洋という舞台 (THE PACIFIC FOR ITS STAGE)
1920年代、飛行機がまだ木と布とワイヤーで作られていた時代、この場所は未知の領域への門戸でした。
飛行機乗りは、広大な太平洋を越えるという当時不可能と言われた挑戦のためにここで機体を整備し燃料を積み込みました。
彼らの成功と失敗が、今日のグローバルな航空時代の礎となったのです。

【ローウェル・H・スミス中尉の大陸横断】


右側は当ブログでもお馴染み陸軍航空の父ハップ・アーノルド少佐
東海岸から西海岸までの大陸横断記録の公式記録を打ち立てたローウェル・H・スミス中尉が記録に署名しているのを見守っています。

【遭難した PN9『アルファ』】

海軍の飛行艇 PN9です。
ちなみに冒頭の画像は、サンフランシスコ湾にいる PN9という画像生成をしてもらいました。
作業をしているのが海軍の水兵であるところは評価できるのですが、砂浜にいきなり飛行艇がいるという状況はどうなのかと。
まあゴールデンゲートブリッジがエモい感じで見えているので許しましょう。

こちらの写真は本物の PN9なのですが、ちゃんとスロープに係留されています。
実はこの PN9、クリッシーフィールドから飛び立ってハワイを目指したものの、燃料切れで着水し(飛行艇でよかったですね)9日間漂流した末救助されたばかりなのだとか。

1925年、2機のPN-9飛行艇が本土からハワイへの初の飛行を試みました。
しかし、両機とも目的地に届かず、海上に不時着を余儀なくされました。
そのうち1機は、救助されるまで12日間も漂流しました。

燃料切れで着水した後、乗組員が機体の翼の布を剥がして帆を作り、約700キロを航行して自力でハワイ近海まで到達したという驚くべきエピソードを指しています。

実は当ブログではそのエピソードについてもうご紹介済みなんだな。

raffaell0.hatenablog.com

その2年後、陸軍が改良したフォッカー C-2が、ここクリッシーフィールドの海岸線から新しいオークランド空港へ飛び、そこからハワイへの飛行に成功しました。

【バード・オブ・パラダイス(極楽鳥)号】

1927年、陸軍のフォッカー C-2「バード・オブ・パラダイス号」が、ハワイへの初の連続飛行を成功させるべく、ここから飛び立ちましたが、この機体は、当時の最新鋭の航法技術を装備しており、その成功は航空史上最大の功績の一つとされています。

リンドバーグはこれを「これまでに試みられた中で、最も完璧に組織され、慎重に計画された飛行である」と評しました。

つまり1925年の海軍によるPN-9の失敗を踏まえて「バード・オブ・パラダイス号(フォッカー C-2)」は成功を収めたわけです。
まあなんだ、海軍・・・ドンマイ。

■ おまけ サンフランシスコ時代住んだ家

近くを通りかかったのでふと思いついて昔住んだ家を見に来ました。
いわゆるタウンハウスという1950年代にゴルフ場跡に形成された巨大なアパート群の一室です。
敷地内にスーパーマーケット、クリーニング店などがあり、オフィスのジムは住民なら無料で使用できました。
家の反対側には芝生の庭があり、何軒かで庭を取り囲む作りになっています。
アメリカ的基準で言うと広くはありませんが、一階には広いリビングルームとダイニングルーム、キッチンがあり、2階には寝室が二つありました。
前のスペースはフリーのパーキングですが、各戸専用のパーキング付きです。

空き部屋を見て回ったとき、ドアの外に雨除けがついていたのでここに決めました。
クリスマスから冬にかけてサンフランシスコは雨季になるのですが、こんなひさしでは雨を防げず、おまけに木製のドアが水を吸って開きにくくなって難儀したものです。
雨が増えると家の周りにカタツムリが大量発生し、ゴミ収集の人が平気でそれをバリバリ踏み潰していくのが心の底から不快だった記憶もありますが、夏は涼しく冬はそんなに寒くない(夏の方が寒さは厳しく感じる)気候で、美しい場所はふんだんにあるし、本当にここでの暮らしを気に入っていました。

この日はMKが出張(卒業した大学にリクルーターとして)から帰ってくる飛行機の到着時間までここで時間を潰していました。
夜になるとかつて住んでいた部屋には灯りが灯り、誰かが住んでいることがわかりました。
ここに住んでいた頃幼稚園児だったMKが、就職して企業説明するような年齢になったんだなあと、あの頃の彼の姿を思い浮かべながら少し感傷的になってしまったわたしです。


映画「戦雲に散る曲」〜Suicide Squadron(特攻部隊)

映画「戦雲に散る曲」(デンジャラス・ムーンライト)後半です。
昨日の「Dangerous Moonlight」はイギリスでのタイトル、つまり原題ですが、これがアメリカに来ると本日のサブタイトル「SUICIDE SQUADRON」(特攻部隊)となってしまいました。
いかにも戦時中のアメリカという気がします。

ところで昨日と今日の冒頭イラストですが、今回初めてグリザイユ画法を採用しました。
グリザイユ画法は、先にモノクロで陰影をつけて仕上げた状態の画像に後から色を塗りこんでいく技法です。
映画の雰囲気に応じて画法を変えていますが、今回のような古いモノクロームの映画の場合、この彩色方法は雰囲気に合っているのではないかと思い試してみました。

コンサートが前倒しになったという電話を受け、ラデツキー夫妻は新婚旅行を切り上げてニューヨークに帰ってきました。
音楽事務所で待っていたマイク・キャロルは、RAFのパイロット募集のことをステファン・ラデツキーに伝えようとしますが、キャロルはそれを必死で阻止します。
とにかく自分の夫になったばかりのラデツキーにこれだけは知られたくないのでした。

彼女はそれが自分のエゴからくる行為だと自覚していますが、その反面、ラデツキーにお金と愛を惜しみなく与えさえすれば、彼はきっと戦線に戻りたくなくなるに違いないと思いたがっていました。

ステファン・ラデツキーの全米コンサートツァーが始まりました。

移動中の車中でラデツキーは別荘で仕上げた「ワルソー・コンチェルト」をコンサートのプログラムに加えるためにオーケストレーションしていました。

シカゴ、インディアナポリス、カンサスシティ・・・。
ポスターにはコンサート収益金はポーランドへの義援金にされると書いてあります。

「ナチスがベルギーに侵攻 - レオポルドが軍を率いて攻撃に立ち向かう」

ヨーロッパ情勢は1940年五月以降激化していました。
この見出しは以前当ブログでも解説した「奇妙な戦争(まやかし戦争)」が突如終わりを告げた瞬間を報じています。
ドイツ軍は中立国だったベルギー、オランダ、ルクセンブルクへ一斉に電撃侵攻を開始しました。ベルギーの国家元首であるレオポルド3世は、自ら軍の最高司令官として前線に立ち、国民の不屈の闘志を鼓舞して防衛戦に突入しました。


「ベルギー前線撤退 」

連合軍(英仏軍)の予想を遥かに超えるドイツ軍の圧倒的な機甲部隊とルフトヴァッフェの戦術の前に、ベルギーの誇った強固な要塞や防衛線はわずか数日で次々と突破されました。
ベルギー軍は全速力で後退せざるを得なくなり、実質的な戦線崩壊が目前に迫っている危機的状況です。

「レオポルド王降伏 ―― ドイツ軍、フランス国境へ猛進」

侵攻開始からわずか18日後、これ以上の抵抗は自国民の無駄な虐殺を招くだけだと判断したレオポルド3世は、英仏などの同盟国に事前の十分な相談がないまま、独断でドイツ軍への全面無条件降伏を決定しました。
これにより、ベルギーの隣で戦っていたイギリス遠征軍(BEF)とフランス軍は左翼の盾を失って完全に孤立し、有名な
「ダンケルクの撤退(ダイナモ作戦)」
へと追い詰められることになります。
同時に、見出しにある通りドイツ軍の矛先は一気にフランス国境へと殺到し、フランス陥落への決定打となりました。

その状況を知るにつけ、ラデツキーの心は故郷の空に帰っていくのでした。

「いつか帰ってくる」

廃墟のワルシャワに上空から約束した自分の言葉を噛み締めます。

その記事を受けてすぐさま行動を起こしたのはマイク・キャロルでした。
ツァーに同行していた彼ですが、RAFからの採用通知を受けとった彼はデトロイトからヨーロッパに発つことを決めました。

ここで初めてラデツキーは、RAFパイロット募集の話をマイクが自分に黙っていたことを知り、それがキャロルに懇願されたからだろうと問い詰めます。

「そうではない」

心優しいマイクは嘘をついてキャロルを庇いますが、ラデツキーは女の魂胆(自分に豪奢で安逸な芸術家の生活をさせて戦争を忘れさせるという)によって誇りを傷つけられ、激怒します。

そこに登場したキャロルに怒りをぶつけました。

「なぜ隠した!」

「行かせたくなくて・・でも悪いと思ってないわ。必要なら何度でもやってやる」

「僕の友達に嘘を吐かせるな!」

キャロルにもマイクにも怒ってラデツキーが行ってしまったあと、二人は互いに謝りあいます。
いや、悪いのはキャロル(女)だけだと思うけどな。

状況的にここはNew York Central Railroad / NYC、デトロイトのミシガン・セントラル駅と思われます。


J-3クラス蒸気機関車

マイクはおそらく汽車でデトロイトからカナダに抜け、そこで王立カナダ空軍の施設でイギリス軍への参加手続きを行い、その後大西洋を渡ってイギリスに到着するのでしょう。

マイクを駅に見送りに来たのはキャロルだけでした。
彼女はアイルランド人のマイクがRAFに加わることをこのように茶化します。

「クロムウェルがあなたの祖先にやったことを考えたら英国のために戦うなんて変よ」
(クロムウェルはアイルランド侵攻し、虐殺を行なって併合をした)

彼の祖国アイルランド共和国は1940年当時、第二次世界大戦に対して「中立」を堅持していましたが、にもかかわらず、多くの若者たちが個人の意志でイギリス軍(RAF)に志願し戦ったという熱い史実があります。
マイクはこう答えます。

「第三者が攻撃してきたんだからアイルランドとイングランドが一緒に戦ったっていいだろう。
それが片付いたらまたドンパチやればいい」

部屋に帰ると二人の間に再び口喧嘩がはじまります。

ラデツキーは今更のように自分がこの国では亡命者であり所詮よそ者であることを自覚し、そこでぬくぬくと暮らしていることに後ろめたさを感じているのです。

それに対しキャロルの考えはこうでした。
飛行士としてあなたが一人加わったところで戦況に何の変化が起きるのか。
あなたにはあなたにしかできないこと、音楽がある。
その才能でポーランドのことを訴える方がよほど影響力が発揮できる。

「そんなふうに思っていたのか・・・」

ラデツキーはその考えに一応は納得したかのように見えました。

「わたしに怒鳴ったこと、謝って!」

彼を説得できたと思ったキャロルは得意げに言います。

ツァー最終日はニューヨーク公演でした。

タクシーのシートでイチャイチャしていると、窓の外から号外の声が飛び込んできます。

「ドイツ軍がパリに侵攻」

慌てるキャロルを置いて、ラデツキーは一人でタクシーを降りてしまいます。

彼が向かったのは音楽エージェントドゥギースのオフィスでした。
そして、すぐにでもヨーロッパに戻って戦うため、第二次ツァーには参加できないと訴えます。

驚いたことにドゥギースは次の瞬間出演契約書を破り捨て、さらに自分もヨーロッパに戻りたいとにこやかにいいます。

「ああ、君はフランス人だから特に心配だろうね」

すると彼はやおらモノクル(片眼鏡)を外すやいきなりパリパリのロンドン訛りでしゃべり出すではありませんか。

「いえ、私はイギリス人なんですよ。
もともとガス・ヒギンズという名前でしたが、ある日突然、偉大なる興行師アンドレ・ドゥギースとなったんです」

「・・なぜ今それを?」

「さあ・・ただ、ニュースを聞いた時、フランスではなく祖国を思ったんですよ」

ドゥギース、もといヒギンズの提案で、ラデツキーがキャロルの父親ピーターズに帰国の決意を伝えに行くと、彼は娘を愛しているから複雑ではあるが、その決心を止めないし娘はわたしがなんとかする、と決意を後押ししてくれました。

演奏会前日、キャロルはラデツキーが弾くショパンの「英雄ポロネーズ」を聞いて激昂し、その曲はやめてと語気荒く叫びます。

ポーランド出身の民謡のリズムをベースにしたポロネーズの三番であるこの曲は、祖国で勃発した武装蜂起をロシアが鎮圧したことから2度と帰れなくなったショパンの祖国への想いが込められているのです。
ラデツキー以外の航空部隊が特攻作戦に出たときにも、オルゴールで何度も流されていたあのメロディ。
ワルシャワを思い出すので嫌だ、と言い放つ彼女をラデツキーは挑戦的に睨み、

「だから弾いている」

そして明日の船便で出発しRAFに加わると宣言します。
キャロルは必死で引き止めようとしますが、ラデツキーはこれは話し合いではなく報告だと言い切りました。

"If life became too easy for everyone, art and music would surely disappear. Because they wouldn't be worth fighting for."
(もし誰もが安易な人生を送るようになったら、芸術や音楽はきっと消え失せてしまうだろう。
戦って守るほどの価値がなくなってしまうからだ)

アメリカでの(自分の家の財力に守られた)イージーな暮らしでは彼を引き止めることはできなかった。
それを知ったキャロルは、マイクから口止めされていたとっておきの秘密を暴露します。

「ワルシャワの航空隊であなたが引き当てたルーマニア行きのくじは、細工されていたの。
あなたを生かして国から出すためよ。ポーランドのために。彼らの気持ちを踏み躙るの?」

うーん、キャロルさん、あなた全くわかっておられない。
それを聞いたラデツキーのような男が、

「あ、そうだったの?じゃ彼らに悪いからアメリカに残る」

というとでも思ったんでしょうか。
キャロル・ピーターズという女性はどこまでも「安全な大国の金持ちのお嬢様」です。
祖国をドイツに蹂躙され、戦友たちを置いて生き残ってしまったラデツキーのような「強烈な自尊心とサバイバーズ・ギルト(生き残りとしての罪悪感)を抱えた男」の心理を1ミリも理解していません。

そもそもラデツキーは、自分がここで生きていることに罪悪感を覚えつつも、それはあのときあたりくじを引いた結果手にした「運命」だからと自分を納得させていました。
しかし、実際は違ったのです。
そしてキャロルはこの暴露によって、彼が拠り所にしていた「運命」という命綱をぶった斬ってしまったのです。

「音楽や祖国と私を比べないで!離婚よ離婚!帰ったら離婚よ!」

いきりたつキャロル。
「仕事とわたしとどちらが大切なの?」
は、古今東西「愚か者の問い」であると実証されてきたのに、それでもまだ口走ってしまう「愚か者」は世に後を断ちません。
彼女と言う愚か者もまた祖国や音楽より自分が選ばれると思ってるんですね。
だめだこりゃ。
案の定彼女を一人部屋に置いてラデツキーは去っていきました。

ステファン・ラデツキーの最後のコンサートが始まりました。
何とこのコンサートのプログラムは

1、ベートーヴェン ピアノ協奏曲第八番「皇帝」

2、シューマン ピアノ協奏曲イ短調

3、ラデツキー ワルソー協奏曲(初演)

という超イレギュラー構成です。
(通常のコンサートで一人の演奏家が3曲協奏曲を演奏するのはありえない)

「ワルソーコンチェルト」の初演が終了し、聴衆がスタンディングオベーションで彼の演奏を讃える頃、キャロルは微笑みすら浮かべていました。
音楽家としての輝かしい成功体験、特別な存在である自分という女性。
これらをむざむざ手放して戦地に死にに行く愚か者がこの世にいるでしょうか。

ドゥギースに聴衆への一言を促されたラデツキーは祖国に対してアメリカ国民がしてくれたことに対し礼を述べました。
このときキャロルは自分の勝利を確信し、満面の笑みを浮かべていました。
しかし、再びステージに現れたラデツキーが、

「もう一曲演奏します。自由のポーランドから生まれた最後の音楽。
ポーランドが今夜もまだ存在していると世界に告げる音楽です」

と言った後、怒りを帯びた眼差しでと2階桟敷席のキャロルを睨みつけてから、ショパンの「英雄」ポロネーズを前奏抜きで演奏し始めると、彼女は唇をかみしめて席を立ち、ホールを飛び出していきます。

車の中で流れている生放送の「英雄」を消せと運転手を怒鳴りつけ、爪をガシガシ噛む彼女。
いかにも甘やかされて育った金持ち娘って感じ。


「イギリスに行ったら別れるなんて言っちゃったの・・愛してるのに」

泣いている娘を父は慰めます。

「謝ればいい」

「でもこんな顔だし・・・明日にするわ」

ここで彼女は「お里が知れる」ともいうべきダメ押し発言をかましてくれます。

「ところでお父さん、何で彼最後にポロネーズを弾いたと思う?」

「なんだそれ」

「最後のうるさい曲よ」

「みんなおんなじに聞こえた」

「あれはね、彼はただ舌を出していただけで、結局は私の言う通りにするよって示していたんだと思う」

アメリカの富豪を教養のない(芸術を理解しない)薄っぺらな成金と決めてかかっているのが窺える脚本です。

勝手に都合のいい筋書きを思いついてすっかり元気になったキャロルは、車の中で化粧直しをしながらホテルに突入しますが、そこはすでにもぬけのからでした。

念の為?何時間も車を飛ばし別荘にも行ってみますが、もちろんそこにもいません。

1940年8月、ラデツキーは渡欧し、イギリスの航空隊でマイク・キャロルと再会を果たしていました。

ラデツキーはマイクに、自分が音楽家であることを周りに言わないよう口止めしました。
万が一でも前のような「配慮」が起こらないようにするためです。

部隊はポーランド人だけでなく、マイクのようなアイルランド人、そしてフランス人もいるという混合外人部隊でした。

マイクは時間待ちのポーカーの間も「トラリーのバラ」というアイルランド民謡を口ずさんでいます。


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鼻歌まじりに勝ったマイクが「今日は運がいい」とご機嫌で賭けの配給券をかぞえていると、仲間がラデツキーに向かってこんなことをいいます。

「Unlucky and card lucky enough, eh, Steve?」

これは有名な格言、

"Unlucky in love, lucky at cards."
(恋愛で不運な者は、カード(博打)でツキがある / 逆もまた然り)

つまり、カードで負けたラデツキーに、

「なに、カードで負けたってことはあっちの方はツイてるってことだよな」

とまだ新しい古傷?をえぐってしまったのです。
ラデツキーは黙って席を立ち、マイクは後を追いました。

ラデツキーはキャロルを無視するなというマイクに、もう彼女とは終わった、と宣言しました。

二人の言い争いは出撃によって中断されます。
(撮影協力・イギリス王立空軍)

しかしマイクはその迎撃から戻ってくることはなかったのです。

同僚が戦死したマイクの話をしていると、片隅のグランドピアノから彼の愛唱歌「トラリーのバラ」が流れてきました。
演奏しているのもちろんラデツキー。

『The Rose of Tralee』は、貧しい身分の男性が、トラリーの街で見初めた美しく清らかな女性(マリー)への届かぬ愛と、彼女を永遠に想い続ける切なさを歌ったバラードです。
キャロルを好きになったのに全く相手にされなかったマイク。
親友のために彼女の嘘を隠し、二人の恋を最後まで応援していたマイク。
実はこんなことになってもキャロルのことを好きだったらしいマイクは、間違いなくこの作品の中の良心ともいうべき気高い魂をもった人物です。

「ピアニストだったのか。道理で。どこかでみたことがあると思った」

とか言われながら基地の上官に遺品を整理するためマイクの部屋に案内されたラデツキーは、自分との出撃前の言い争いが彼の精神の安定を削ぎ、そのため彼は死んだのではないかと自分を責め続けていました。
そして彼は遺品の中からキャロルからの手紙を見つけました。

「彼の住所を教えて。5日後にそちらに発つの」

ラデツキーは彼女との連絡を一切拒否していたので、マイクは二人の板挟みになって悩んでいたのに違いありません。

その日も空襲がありました。
待機していたパイロットが椅子を蹴飛ばして愛機に走ります。

ドイツ軍のハインケルHE111のつもりかもしれません。
なぜか機体の文字が反転しています。

スーパーマリン・スピットファイア。
「ZP」は、バトル・オブ・ブリテンにおいて凄まじい撃墜記録を叩き出した実在の精鋭部隊、
RAF第74戦闘機中隊(No. 74 Squadron / 通称:タイガー・スコードロン)
の固有コードです。

ラデツキーは1機を撃墜し、敵機が墜落していくのを見ながら狂気じみた様子で微笑みます。

2機目も同じく。目が怖いよ。
親友のマイクの弔い合戦をしているつもりでしょう。
しかし狙いをつけた3機目で、銃弾が切れているのに気がつきました。
次の瞬間、彼は機体を上昇させました。

ためらいもなく彼は眼下の敵にむけて突っ込んで行きました。

そして次の瞬間彼の意識は途切れ・・・。

映画の冒頭にスライドします。
奇跡的に命を長らえ、記憶だけ失って病院に収監されている現在に。

次の瞬間彼は弾き慣れた「ワルソー・コンチェルト」を奏でていた・・というわけです。

そしてふと傍を見やると、そこには絶望しきった表情のキャロルがいました。
その姿に彼は声をかけます。

"It's not safe to be out tonight, when the moon is so bright."

 「今夜は月が明るすぎるから外に出るのは危険だ」


それは彼らが初めて出会った瞬間に彼が発した言葉でした。
記憶が戻った!と思ったキャロルは彼と抱き合うのでした。

だがしかし待って欲しい。

ここまで丹念に読み解いていくと、まずラデツキーの今後にはどう転んでも明るい未来はやってこないような気がするのです。
そもそも、ラデツキーは本当に記憶を取り戻したのでしょうか?
出逢った時のセリフを口にし、その時弾いていた曲を思い出したとしても、それはただ、
記憶がその日に戻っただけ

と考えられませんか?
ここでその後の展開をふた通り予想してみることにしましょう。

1、キャロルの望む”わたしの元を決して去らない男”コース

もし記憶が「出会った頃」でストップしているとします。

ということは、彼は祖国ポーランドの崩壊も、自分を逃がすための仕組まれたくじ引きも、キャロルの姑息な嘘も、そして何より無二の親友マイクが戦死した事実もすべて忘れていることになります。

そんなラデツキーは、キャロルにとって、まさに『都合のいい夫』。
自分より祖国を選び戦場へ向かった激しい情熱を持つ芸術家はもういません。
彼女にすれば自分を無条件に愛してくれた頃の、無害で従順な夫が手に入ったわけです。
彼女は喜んで彼をアメリカへ連れ帰り、安全な鳥籠の中で一生「私の愛するピアニスト」として飼い殺すでしょう。
そしてラデツキーは、自分がヨーロッパに戻り再び飛行機に乗る機会を永遠に失ったあとの人生をぼんやりとした割り切れない思いとともに生きていくことになるでしょう。
それは、ラデツキーという男の魂の「完全な死」を意味します。

2、新たなサバイバーズ・ギルトコース

それでは、彼がすべての記憶を取り戻していたとしましょう。

そのうえで彼の記憶がもう一度フラッシュバックしたら?
そのときは以前よりも激しい罪悪感に苛まれる地獄が待っています。

マイク戦死後の攻撃中に弾が尽き、死ぬつもりで特攻したはずなのに、またしても自分だけが五体満足で生き残ってしまった。
今回の生存が不正のくじではなく運命の采配だったとはいえ、重すぎる十字架を背負った精神状態にお構いなくキャロルがそんな状態の彼をピアノと豪華な生活を与えるためにアメリカに連れて帰ったとしたら?

ただでさえ後ろめたさを感じていたアメリカでのセレブ生活に再び舞い戻って、何食わぬ顔でピアノの前に座る。
そんなことが彼のような男にできるものでしょうか。

彼が真の意味で「自分の使命はピアノを弾くこと(仲間への鎮魂)」だと気づき、救われるまでには、血を吐くような苦しみと膨大な時間が必要になることでしょう。

■亡命芸術家アントン・ウォルブルックの”嫌悪”

本作品は名作とは言われませんでしたが、当時イギリスでそこそこヒットしたそうです。
しかしシュテファン・ラデツキーを演じたウォルブルックはこの作品を評価していなかったと伝えられます。

アントン・ウォルブルック(本名アドルフ・ヴォールブリュック)は、オーストリア出身の知的な名優でした。
同性愛者でありユダヤ人の血を引くがゆえ、ナチスの迫害を逃れイギリスへ亡命してきた「本物の亡命芸術家」だった彼は、国を追われる恐怖、残してきた人々への罪悪感、ファシズムへの激しい怒りといった「サバイバーズ・ギルト」を、フィクションではなく自分自身のリアルな人生として、骨の髄まで味わっていました。

そんな彼がこの映画の台本を読んだとき、強烈な違和感と嫌悪感を抱いたはずです。

「本物の戦争や亡命は、こんな甘っちょろいメロドラマではない」

「戦友を失い、祖国を滅ぼされた男の絶望が、こんな甘ったるいハッピーエンドで終息するわけがない」

ウォルブルックは、映画の最大の見せ場である「ワルソーコンチェルト」をラデツキーがピアノで演奏するシーンの撮影ですら最初は拒否(彼はアマチュアながらかなりのピアノの腕前で、演技には何の問題もなかったはず)するなどこの展開に反発を見せたものの、最終的にプロとして見事な演奏シーンを演じています。

真の亡命芸術家の目は、この映画が、現実の亡命者たちの血と涙さえも都合の良いロマンスで綺麗にコーティングして大衆に消費させる、所詮は娯楽作品であることを見抜いていたのでしょう。


終わり。

映画「戦雲に散る曲」〜Dangerous Moonlight(危険な月夜)

昔、ある音楽関係の知人に、「これ弾いてみてくれる?」と楽譜を渡されました。
外国版の楽譜のそのタイトルは、

「Warsaw Concert」(ワルソー・コンチェルト)

音符の数が多く派手な感じですが、コード進行やメロディに深みを伴う複雑さがなく、こう言ってはなんだけどチープな曲だなと思った覚えがあります。
楽譜を見せてくれた人からはこの曲の由来についてなんの説明もなかったし、わざわざ練習してまで弾きたいとは思えなかったので、そのとき初見でぱらぱらと弾いてそれっきりとなっていました。
その後、何かのきっかけでカーペンターズ兄のリチャードがこの曲を弾いていることを知り、一応聞いてみましたが、感想は初見の時と全く変わりませんでした。


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今改めて聞いても音が多い割にたいしたことない曲だと思う(特にカデンツァ)

そして幾星霜、つまり昨日のことです。
次に当ブログ映画部で取り上げるCDを探していたところ、ふと目に止まったのが「戦雲に散る曲」というタイトル、そしてピアノを弾く男性のサムネイルでした。
画質次第では(山口淑子の『日本の戦争花嫁』が画質悪すぎで断念)取り上げようと観始めた途端、聞き覚えのある旋律が。
そう、「ワルソー・コンチェルト」は1941年に製作されたこの超無名映画の付随音楽だったのです。
なぜ「ワルシャワ」なのかというと、主人公はイギリス空軍のポーランド人航空隊コシチュシコ中隊をモデルにした戦闘機隊のパイロットであり、ピアニストという設定だからだったのでした。
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こちらのビデオには、映画の内容が抜粋されています。

「デンジャラス・ムーンライト」がイギリスでのタイトルです。
主人公のシュテファン・ラデツキーを演じるアントン・ウォルブルックはオーストリア出身で本名はアドルフ・アントン・ヴィルヘルム・ヴォールブリュックです。
どこかで見たことがある俳優だと思ったら「49th Parallel」(潜水艦轟沈す)でフッター派のリーダーを演じた人でした。

raffaell0.hatenablog.com

1940年、ロンドンの病院でベヒシュタイン製のピアノに向かう一人の男がいました。
男の名はシュテファン・ラデツキー。
イギリス空軍のパイロットであるポーランド人の彼は、バトル・オブ・ブリテンで負傷し、記憶を失ってここにいます。
かつて高名なピアニストでしたが、今はピアノを無意味に全く意味のない音で連打しているだけ。それを一人の女性が悲痛な表情で見守っています。

病院スタッフが
「爆弾が終わったと思ったらあのピアノで睡眠不足よ」
と愚痴を言いながら説明するところによると、彼の飛行機は大破したのに身体は無傷で記憶だけを失ったようです。

医師たちは三日前から治療として彼にピアノを弾くことを勧めていたとはいえ、昼夜休みなく繰り返される破壊的な音を聞いて思わず眉を曇らせます。

ところでこの人もどこかで見たことがあると思ったら、

raffaell0.hatenablog.comイギリス映画「スピットファイア」でヴィッカーズ社の会長を演じた人でした。
一度ブログで取り上げると、どんな端役の顔も覚えてしまうものです。

そのとき奇跡が起こりました。
無意味な音の連打が音階に変わるというちょっとした変化の後、いきなり流暢な演奏が始まるのですが、それこそが彼の作曲した「ワルソー・コンチェルト」だったのです。

完璧に曲を弾きこなす彼は、瓦礫の町ワルシャワでのある晩の出来事を思い出していました。

アメリカ人新聞記者のキャロル(サリー・グレイ)は、夜間攻撃で崩壊した街を歩くうち、どこからともなく聞こえてくるピアノの音にふと立ち止まり、引き寄せられるように一軒の邸宅に入っていきました。
彼女が音のする半壊した家屋の戸を開けると、煙草を咥え、虚無的な様子でピアノを奏でている男が彼女にこう言います。

"It's not safe to be out tonight, when the moon is so bright."

 「今夜のように月が明るいと、外を歩くのは危険だよ」

彼は「今日思いついた」といって、のちに「ワルソー・コンチェルト」となる曲のモチーフを弾き続けていました。

男はピアノを弾き続けますが、その音に乗せるように二人の自己紹介が始まります。
彼は御前演奏をしたこともある成功した(本人談)ピアニスト。
彼女は裕福なニューヨークの名家の出身でアメリカの新聞記者。
取材のため戦火のワルシャワにやってきて、ファッショナブルな出立ちで瓦礫の中を歩き回っているというわけですか。
ラデツキーが自分は飛行士でもあるというと、このお洒落記者、なぜかイキリ立ってこう言います。

「で、あなたはこんなところで何をしているの?
なぜやつらが人々を殺しているのを止めないの?ピアノなんか弾いていないで」

うぜえ。何いきなりキレ散らかしてんだこの女。
という感想はともかく、このセリフ、覚えておいてくださいね。
同じ人間が立場が変われば180度違うことを言い出しますから。

それを聞いたラデツキーは怒りの色を見せ、ピアノをやめて立ち上がって吸っていたタバコを床に投げ捨て(おいおい)、

「今日も9時間上空に上がった」

「敵の飛行機との性能差は歴然としている」

「10日間燃料がなく、子供に車の残骸からそれを取って来させている」

「私の部隊で生き残っているのはもう二人だけ」

だから今すぐ帰ってワルシャワの現状について素敵な記事を書いてお金を儲けてくれ、とこちらもキレ気味に嫌味を言います。
女性は慌てて、何も知らずに上から目線で初対面の人間に説教したことを謝り、気を取り直した二人が音楽と生まれの話で盛り上がった頃、おあつらえ向きに?爆撃がありました。
タイトル通りの「デンジャラスな月夜」です。

ピアノの影に身を隠した二人はそのまま見つめ合い・・・・(以下略)

さて、場面は代わり、ここはラデツキーが所属するポーランド軍航空隊の司令室。

窓際に積まれた土嚢の横には、近代ポーランドの国父であり、ポーランド軍最高司令官・元帥を務めた
ユゼフ・ピウスツキ(Józef Piłsudski / 1867〜1935)
の肖像が掲げられています。
1939年のポーランド侵攻のときにはすでに亡くなっていましたが、ポーランド軍の基地や司令室、公共機関の壁には、精神的支柱としてピウスツキ元帥の肖像画や写真がそのまま掲げられているのが一般的でした。

ラデツキーの航空部隊はワルシャワ防衛のため、前線に出ることになりました。
そんな中、航空隊司令はある決定を下します。
高名なピアニストであるラデツキーを死なせないため、その同行者としてベテランであるマイク・キャロル、そしてくじ引きで選ばれた2名を飛行機の輸送という名目でルーマニアに送り、生きてポーランド空軍の系譜を継がせることです。
マイクは任務を拒否しますが、司令はラデツキーには経験が豊富な彼の護衛が必要だとして有無を言わせません。

司令がパイロットたちの前に現れた時、ラジオはオルゴール(ショパンの「英雄」のメロディの4小節)を繰り返していました。
正午になると音楽は止まり、同時にワルシャワ市長が要請した停戦が成立し、ワルシャワの抵抗は終わります。
司令はこの音楽が鳴り続けている間に片道燃料の爆撃機2機でドイツ軍基地に爆撃を行うと宣言しました。
片道燃料で行く訳は、燃料が底をついた今、これなら2機で攻撃できるからです。

本作品のアメリカでのタイトルは
「特攻部隊」Suicide Squadron
ですが、まさにこれぞ特攻部隊。
爆撃機の乗員は12名、合計24名が12時までに死を前提に飛び立つということです。
自分を除いた23名を志願する者は一歩前に出て欲しい、と司令がいうと、

その言葉が終わらないうちに全員が一歩踏み出しました。
(そのなかにはラデツキーとマイクもいました)

「馬鹿者どもが・・・予想はしていたが」

司令はあらかじめ用意していたくじ引きによって23名を選びました。
ラデツキーの引いたくじは「爆撃機」でしたが、副官は彼に見えないように紙を握りつぶし、彼に「ルーマニア」と告げました。

ラデツキーとマイクが司令部の建物を出るころには爆撃隊はもう出撃していました。

・・・ってこれ、ポーランド軍の飛行機じゃなくない?(しかも3機いるし)
この写真をGeminiに放り込んで聞いてみたところによると、これはやっぱり(大威張り)RAFの主力双発爆撃機であった
ブリストル ブレンハイム(Bristol Blenheim)
それも機首が短い初期型のMk.I(またはその派生・練習機型)の編隊であるということでした。
ポーランド空軍の近代的な
双発爆撃機PZL.37「ウォシ(Łoś)」
のつもりだろうということです。

マイク・キャロルという名前から分かるように彼はポーランド人ではありません。
アイルランドからの義勇兵としてポーランド軍に参加しています。

司令を含む24名が数時間以内にこの世にいないのは確実ですが、かといってくじで「残る」を引き当てたものの運命も決して安泰でないどころか、むしろ過酷だったのではと想像されます。
なぜなら彼らが陥落目前のワルシャワで地上戦に巻き込まれるか、ドイツ軍の捕虜になる可能性は高かったからで、それがわかっていれば爆撃機で相手にあわよくば一矢報いて死に花を咲かせる方を皆が選んだというのはごく自然です。
一歩踏み出した者が義務感やましてや同調圧力だけに背中を押されたのではないでしょう。

つまり部隊の中で「生への切符」を手に入れたのは、ルーマニア行きとなったラデツキーら4名だけだったのです。

そして彼らはルーマニアに向かって飛びました。
当時のポーランド空軍の戦闘機はPZL P.11などでしたが、これはわたしにもわかるスーパーマリン・スピットファイアです。
貼り付けてあるのが丸わかりのポーランド空軍の国籍マーク(Szachownica lotnicza:シャホヴニツァ)の下にはRAFのラウンデルが隠れているというわけです。

映画にはイギリス王立空軍が協力しており、そのことはメインタイトルでもお断りされているわけですが、このときのスピットファイアはおそらく前線の戦闘から一時的に外されていた、あるいは習熟訓練用の機体ではないかと思われます。

ラデツキーが眺めているという設定で荒廃したワルシャワの空撮が続きます。


写真検索にかけたところ、これは本物で、競技場は空爆による死者のための臨時墓地になっているらしいことが判明しました。

まだ煙が立ち昇っている状態です。


ラデツキーの目には涙が浮かんでいました。

「帰ってくる・・・いつか・・必ず」

数ヶ月後、シュテファン・ラデツキーとマイク・キャロルはアメリカに入国しました。
世界的なピアニストとしてアメリカで演奏を行うのが目的です。

このフランス訛りのマネージャー、ドゥギースが報道陣に説明するところによると、ラデツキーはルーマニアで収容所に収監されたのち、そこを出ることに成功し、現在に至ります。

船内で行われた記者会見に、噂を聞きつけてキャロルがやってきていました。
彼女はポーランドからやってきたピアニストがあの爆撃の夜の人物と同一人物だと確信を持っていました。
そして、向こうも自分を忘れていないはず、と自信満々でした。
しかしラデツキーは紹介されてもピンときていない様子。

「彼、君を覚えてないみたいだよ」

仲間の記者がショックを受ける彼女を揶揄いながら去っていきます。
いくら夜で暗かったからって、ある程度深い関係になった相手の顔をすっかり忘れるものでしょうか。

そのときキャロルの美貌に目をとめたマイク・キャロルが、脊髄反射で猛烈なアプローチを始めました。
「キャロルだって?ぼくもキャロルだ。親戚かな。なんちゃって」

キャロルはこれを相手にせず、ラデツキーに盛んにワルシャワの話をしてあの夜を思い出させようとしますが、彼がキャロル(男)のことを「彼に近づくのは危険だよ」というと言葉の端をとらえて、

"It's not safe to be out tonight, when the moon is so bright."
「一人で歩いても大丈夫よ。月が明るければ」

という”キーワード”で彼に自分を思い出させるのに成功しました。

君のことを考えていた」

とラデツキーがいうのに対し、キャロルは、

「私を見ても思い出さなかったくせに」

「いや、帽子が違うし・・・」

苦しい。実に苦しい言い訳である。

キャロルという女性は、狡いのかキープしておきたいのか、キャロル(男)の誘いをはっきり断らず、
「8時にパーティがあるからそこで会いましょう」
などといいますが、その実彼と会う気はさらっさらありません。

キャロル(男)がキャロル(女)に会えると思い込み、めかしこんで部屋を飛び出していくと、入れ替わりにキャロル(女)はラデツキーに会うためにホテルの部屋にやってくるのです。

ラデツキーもキャロル(男)を追い出した部屋にルームサービスを用意して準備万端です。
わたしは本作のこの二人の男女に対し、最初から最後まで実のところ全くと言っていいほど共感できなかったのですが、それはなぜなのかを考えたところ、第一の原因はここにあったのでした。

死地から共に脱出し、技量の劣る自分の護衛をしながらここまで一緒にやってきた同僚が、女の嘘にまんまと騙されてワクワクしているのにそれを(自分の欲望のために)黙ってみている男。
男のアプローチをはっきり断らず、餌を撒くように自分が行きもしないパーティに追いやり、本命の男と会う女。
しかも

「うふふふ」

「何がおかしいんだ」

「マイクのことを考えていたの。うまくやれるといいけど・・」

「何をしたんだ」

「うふふ、彼のためにコーラスダンサーの女の子を用意してあげたの」

いやこれどっちも最低でしょう。二人してマイクをバカにしているよね。
字幕では「マイクに男好きの女をあてがってやった」になっててさらに酷い。

マイクを引き立て役のピエロにして・・・なんなのこの脚本。

そしてこの夕食の終わり、二人は二回目の邂逅にして結婚することを決めました。
勝手にしてくれ。

二人が結婚届を出してキャロルの家に荷物を取りに行ったところ、彼女の父、富豪のピーターズ氏と遭遇しました。
異常に物分かりのいい父は、「ちゃんと前もって言って欲しかった」といいつつ、母親にバレないようにという理由で二人をこっそりベランダから出て行かせます。(意味不明。ちなみに母親は映画に登場しない)

新婚旅行先はピーターズ家のゴージャスな別荘。
キャロルのリクエストでお姫様抱っこさせられ部屋に入るラデツキー。

ピアノに座ったラデツキーは「結婚行進曲」に続き、リストの「リーベストロイメ三番」(愛の夢)を新妻のためにプレゼント。

なんとこの別荘には黒人のバトラーが常駐しております。
よっぽど人件費が安いんですね(嫌味)
そのバトラーによって、ピアノはキャロルの注文で今朝届いたということがバラされます。
スタインウェイのグランドピアノ(たぶん)はキャロルからの贈り物でした。

その頃、ラデツキーの事務所は大騒ぎしていました。
コンサートの日程が早まったのに本人が雲隠れしてしまったのですから。
あちらこちらに事務所総出で電話しているところにマイク・キャロルがやってきて、マネージャーにいいます。

「彼が一緒にいる女性なら知っている」

キャロルはマイクをパーティで騙した件については何の弁明もなく、自分がラデツキーと結婚したと得意げに宣言しました。
マネージャードゥギースから演奏会の日程が早まったから帰るようにと言われると、不承不承それを伝えることを承諾します。

そのとき、マイクが電話を変わりました。

「シュテファン(ポーランド風発音)に伝えて欲しいんだが、イギリスでポーランド航空隊が招集される。
僕はもう申し込んだ。彼の申込書もある」

彼らは半年の演奏旅行を終えたらその後はヨーロッパに戻って戦うことになっていました。
マイクのいうポーランド航空隊はRAFの第303戦闘機中隊(コシチュシコ中隊)のことです。

しかしそれを聞いたキャロルは呆然とします。
最初にラデツキーと出会ったとき、
「なぜ戦わないでこんなところでピアノなんか弾いているの」
などと無責任に煽っていた彼女ですが、彼が自分の夫になった途端、戦地に帰らせたくなくなったのです。

彼女はそれをラデツキーに言わないようにと口止めし、彼がそれを知ることがないように誤魔化し続けることを決意しました。
それを知ったが最後、ラデツキーはイギリスに向かうことを知っていたからです。

その夜、ピアノの音で深夜目を覚ました彼女が階下に降りていくと、ラデツキーが月明かりに照らされながら演奏していました。
ちなみに彼女の着ているのは寝巻きです。

「君と一緒にいたら曲の続きが思い浮かんだんだ。
忘れないうちに弾いておこうと」

愁いを含んだ彼の表情に、キャロルは必死で「自分と幸せにこれからも生きてほしい」という思いを伝えようとしますが、彼は今の世界の状況と祖国を忘れることはできないと穏やかにいうのでした。
そして、自分が戦争を忘れられるのはむしろ空を飛んでいる時だけだとつぶやきます。

二人は窓の外を見やりました。

「ああ、ご覧。不思議なことが」

「二つの星が見えるわ」

「あれは星と流れ星だ。二つが揃うのは200年に一度だ。
一緒になってから離れて、最後には元の位置に戻る。今の状態だ」

この「二つの星」なる現象は実際に存在しません。
一つの固定された星と軌道を外れて200年後に元に戻る流れ星を彼ら二人に例えているのだろうと思われます。

ところで、本作の主演俳優を全然知らない人も、テレンス・ヤングという名前には聞き覚えがあるのではないでしょうか。
後に映画『007』シリーズ(『ドクター・ノオ』や『ロシアより愛をこめて』)を監督し、小粋なセリフ回しやロマンチックな演出で世界を魅了する人物です。
このシーンには、「夜明けの星を見つめる美男美女に、自分たちの過酷な運命と奇跡的な再会を予言するような、最高にロマンチックで少しキザなセリフを喋らせたい」という、彼の作家性が見える気がします。


続く。

「明治丸」〜タンツー節と0.167度の「取舵」

「明治丸」見学続きです。
この写真には前回説明した揚錨機(普段は蒸気動力、非常時には人力で動かすことが可能なハイブリッド)がその黒々とした姿を見せています。

■甲板磨きの”タンツー(turn to)節”


船橋の下に見えている窓は「海図室」(チャートルーム)のものです。

チャートルームには海上保安庁発行の東京湾海図が展示されていました。
建造から1892年まではここが操舵室だったのですが、この時行われた修理の際、操舵室を上階に移し、ここを海図室にしたという経緯があります。

左に見える櫃は、かつて海図を収納していたものだそうです。(本物かどうかは不明)
案内の方が手渡しているのはヤシの実で作った「甲板磨き」。
昔当ブログでは甲板磨きの作業に使われた「ホーリーストーン」をご紹介したことがありますが、

raffaell0.hatenablog.com甲板がチークでできていた「明治丸」は、甲板に砂を撒き、椰子の実の二つ割りを使って磨いていたのだそうです。(ホーリーストーンよりは甲板削れなさそう)
この作業を日本の船業界では「タンツー」(turn to=取り掛かる)と呼びました。

早朝のヤシの実による甲板磨き(椰子摺り)の際には、ワークソングとして「タンツー節」(「タンツ節」とも)が歌われていたそうで、かつての商船学校の練習帆船(大成丸、日本丸、海王丸など)や民間船の乗組員・実習生たちの間で伝承されてきました。

 


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商船学校の寮歌になったとこの歌、作詞作曲も商船学校生ということで臨場感満載です。
ちなみに初代?タンツー節となった明治45年版は以下のとおり。

 

タンツー節(明治45年)
作詞・作曲 永山良三(東航58期)

1、ボビーの夢を揺籃の 静けきベッドに結ぶとき
目玉ランプのものすごく 辺り構わず怒鳴り込む

2、ブレイス曳けとの号令に 飛び出す健児足早く
顔のみ猛き野次馬の 声は力にまさるなり

3、草木も眠る丑満つに 暫しまどろむハッチメソ
折から呼び子が鳴り亘り リーフォアブレースよいやのさ

4、タンツー掛かれの号令に ガシャガシャサイドにおしやられ
七つのお鐘が鳴るまでは プープデッキを這い回る

5、七つのお鐘はまだおろか 八つのお鐘が鳴るまでは
八つのお鐘が鳴る迄は ピープデッキを這い回る

6、霧降る夜の冷たさも ロイヤル畳めの号令に
脱兎の如く飛びついて ギルンリギンを登り行く

7、一人旅路の大成に言い寄る英船「チーフ号」
暫しウインク千鳥足 老大成も気は若い

8、洋上遥か東に シアンたっぷりの白砂の
かんざし姿は誰を待つ 惚れた信天翁が離りゃせぬ

9、帆影映らう甲板に ごーろり夢を結ぶとき
通りは遠き故郷の 夢を破られログ流せ

10、寒さと霧にせめられて 外套合羽の達磨さん
ブレース引けとの号令に ハッチの影から踊り出す

 

4番と5番、プープデッキなのかピープデッキなのかどっちなんだ?
あるいはどちらかが間違い?とおもったらそうでもないようです。
プープデッキはラテン語で船尾を意味するpuppis (フランス語の poupe)から来ており、ピープの方はそれが口語的に転じた日本人船員の間の常語でした。
現場では「プープ」も「ピープ」も使われていたということです。
4番と5番はいずれも甲板掃除がいつまでも終わらないことを歌っており、もうどっちでもいいです的な投げやりを表しているのかもしれません。

 

7番の「大成」は、 主に練習船として1903年に建造され高等商船学校生徒の練習航海に使用された蒸気機関付帆船のことです。
「大成丸」は1945年に神戸沖で機雷に触れて沈没し、その資料が当大学資料館に現存します。
大成丸に言い寄る「チーフ号」とは、当時世界の海上物流の覇権を握っていた英国船だったと思われます。

「一人旅路の大成に言い寄る」:イギリスの船が近づいてくるのを「言い寄る(ナンパする)」と表現しています。

 「暫しウインク千鳥足」:発光信号を送る様子をウインクに例えています。
また、波に揺られて船体が左右にローリングする様子を千鳥足と表現しています。

「老大成も気は若い」:言い寄られてウインク(発光信号)を返している大成丸も、歳の割には・・。

大正3年(1914年)に刊行され、夏目漱石が激賞したことでも知られる東京高等商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記『海のロマンス』(米窪太刀雄 著)には、すでにこのタンツー時の合唱についての記述が見られます。  

それによると、この歌はハンドポンプで甲板に海水を汲み上げる音や、実習生たちが総出でヤシの実をごしごしと擦る単調で過酷な作業の「リズム(テンポ)」を合わせるためのワークソング(労働歌)として誕生しました。  

音楽的特徴としては、決まった1つの公式な軍歌のようなものではなく、全国の港町で歌われていた民謡や「ダンチョネ節」などの俗謡のメロディ(いわゆる『ヨナ抜き音階』などの口ずさみやすい節回し)をベースにしています。  

即興性と変化: その時々の船、時代、あるいは実習生の代(期)によって、歌詞は自由に即興で替え歌にされ、口伝で受け継がれていきました。
しかし、そのほとんどは、

過酷な労働への嘆き:「朝だ朝風、タンツーかかれ、鬼の教官の目が光る」といった、早朝の眠気と戦いながら冷たい海水とヤシの実で手をすりむく辛さを自虐的に笑うもの。

芋ばかりの食事への不満:当時の練習船の食事(航海が長引くとジャガイモやサツマイモ、乾燥野菜ばかりになる)を揶揄して「飽満した芋腹(いもばら)を抱えて……」といった食生活への愚痴を歌ったもの。  

港町への未練とロマンス:「〇〇港のあの娘に見せたいこの姿」「やしの葉揺れるサンゴ礁、人魚としばし語らいも、タンツーかかれの号令に、夢よはかなき波枕」など、寄港地での淡い思い出や、厳しい現実に戻される瞬間の切なさを歌ったもの。

だいたいこのような歌詞となっていました。


部屋の隅には商船学校で使われてきたと思しき桶にビレイピンが無造作に。
ビレイング・ピン(止索栓)は甲板でロープを留めるための棒です。
材質はごらんの木でできたもののほか金属(鉄、真鍮)のものもあります。

ビレイピンにはロープは結びつけません。
ピンの上と下を 8 の字に3回以上往復させて掛けます。
素早くロープを止めることができ、ゆるめるときも簡単です。
このビレイピンもかなり年季が入っています。

■ 船長室と初めての日本人船長

チャートルームの後ろには船長室があります。
かつて「明治丸」がグラスゴーから日本に回航されたとき、この部屋の主であった初代船長は、英国人
R・H・ピータース(Robert H. Peters
でした。
明治天皇が乗船された「東北・北海道巡幸」(海の日の由来となった航海)や、小笠原諸島への日本領有権確立のための調査航海の際も、実際に船を操船していたのはこのピータース船長をはじめとする英国人クルーたちです。

なお、明治丸の建造監督やイギリスでの受取業務を指揮した
アルバート・リチャード・ブラウン
も、工部省灯台寮の雇われ船長として明治丸の歴史に深く関わりました。
当然頻繁にこの船長室で過ごしたはずです。


明治政府が念願とした「商船の日本人自営(外国人に頼らない運航)」が進む中、明治丸の現役時代の最終盤に、ついに日本人の船長が誕生します。  

中尾 昌清船長
は、1893年(明治26年)11月に「船長心得(代理)」として明治丸の指揮を執り始め、翌1894年11月に正式に明治丸の船長へと就任しました。

彼が船長を務めていた時期は、ちょうど日清戦争(1894年〜1895年)の真っ最中でした。
「明治丸」は公船として病院船や通信任務、あるいは捕獲船の回航などに従事したとされていますが、この激動の時代に日本の象徴たる明治丸を率いたのが、この中尾船長です。

はっきりと船長として名前が残っているのはこの中尾船長だけです。
その理由は「明治丸」が1896年(明治29年)に大型台風で被災した際、現役を引退して東京高等商船学校の「係留練習船(動かない校舎としての船)」になり、これ以降は、独立した「船長」というよりも、学校の「校長」や「船長を兼任する教授(教官)」が船の管理責任者となったからなのです。

さて、船尾に戻ってきました。
ここには「ザ・船の舵輪」と言いたくなるくらい立派な舵輪が鎮座しています。

■ 0.167度「取舵」

人体との比較で大きさをご想像ください。
案内の方がさし示していたのは、人力のねじ式操舵装置(スクリューステアリングギア)舵輪の「終始点マーク」です。

ここでわたしは面白いことに気がつきました。

持ち手の先にある金属の突起、スポーク・インジケーターは12時に来るのが正しい舵輪の静止位置で、係員は

「ミニチュアの置物や飾りなどでこれが再現されているのを見たことがない」

とおっしゃっていました。
それならなぜここにある舵輪は12時の位置に置かれていないのかと聞いてみたところ、わからないと言う返事でした。
昭和38年に行われた陸上定着の際、わずかにずれた位置で固定されてしまったのだと思われます。

で、考えてみました。
Geminiくんにお聞きしたところ、

「舵輪を丸ごと1回転(360度)させると、実際の舵(舵角)は『1度』動く」

のだそうです。
これを元に計算すると10時の位置にインジケーターがある状態は1回転の6分の1、つまり60度左に動いていることになります。

角度の単位である「分(′)」に換算すると、1度は60分ですので、ちょうど10分(10′)になります。
つまり、理論上は「左にわずか0.167度(10分)だけ舵が切られた状態」です。

しかし、この状態で外から確かめたとしても、おそらく肉眼では真っ直ぐ(面舵取舵ゼロ)にしか見えないでしょう。
大型の帆船や初期の汽船を人力でコントロールするために、どれほど舵輪を何十周もグルグルと回す必要があったのかが、この「10時の位置のズレ」からリアルに伝わってきますね。

舵輪の先の機構は雨除けの小屋で覆われていました。

この細い最初のネジが刻まれた棒が動力を伝えていき、最終的に巨大な重い鉄製の舵を、波の抵抗に逆らって人の力だけで動かす、当時の驚くべきメカニズムです。

■船尾方向を向いて「取舵」を切った場合

ここでふと疑問が湧きました。
この舵輪は船の進行方向つまり船橋のそれとは逆を向いて操作します。
それでもやはり「取舵」は左、「面舵」は右なのか?

結論から言うと、操舵手が船尾(後ろ)を向いて操作する場合であっても、「面舵(右)」「取舵(左)」という号令に対する舵輪の回し方は、船橋にいる時と「全く同じ感覚」で行えるように設計されています。

つまり、操舵手がどちらを向いていようと、進行方向に向かって船を左に変針させたい(取舵をとりたい)時は、「自分から見て舵輪を反時計回り(左)に回す」ようになっているのです。

もし、船橋と同じ機械リンク(単にギヤを直結しただけ)にしてしまうと、進行方向への「取舵(左)」の号令がかかった際、後ろを向いている操舵手は自分の右手側(感覚的には右)へ舵輪を回さなければならなくなり、緊急時に大混乱を招きます。

そのため、明治丸の後部操舵装置(ねじ式スクリュー・ギヤ)は、操舵手が直感的に「左(反時計回り)に回せば、船が進行方向の左(取舵)へ曲がる」ように、ギヤのネジの切られ方(螺旋の向き)があらかじめ設計されています。

■なぜ「反時計回り」が取舵なのか?

当時のイギリス式(およびそれを受け継いだ日本海軍・商船)の伝統的な人力舵輪は、基本的に以下のルールで統一されていました。

面舵(Starboard): 舵輪の上部を時計回り(右)に回す = 船首が右に曲がる

取舵(Port): 舵輪の上部を戻すように反時計回り(左)に回す = 船首が左に曲がる

「明治丸」の後部操舵装置は、船橋からの遠隔索が切れた際、ギヤをクラッチで直接切り替えて、あの大きな舵輪を直接人力で回してネジ棒を動かし、舵頭を物理的に回転させます。

このネジの構造自体が、「後ろを向いた人間が、自分から見て左(反時計回り)に回すと、結果として舵板が船首から見て左に傾く」ように作られているため、操舵手は進行方向が背中側で見えなくても、ただ号令通りに「取舵なら左、面舵なら右」と舵輪を回せばよかったのです。

後部を向いた舵輪のインジケーターが10時の位置(左側)にずれているということは、操舵手から見て「左に回された状態」。
すなわち、この明治丸は理論上、わずかに「取舵(左舷側)」に舵が切られた状態で半永久的に固定されているということになるのです。

続く。