
スミソニアン博物館の「アメリカ旅客機の歴史」シリーズ、前回は実にワクワクする当時の機内サービスについてお送りしましたが、あの飛行機模型や航空会社のパンフレットに登場するのは全員白人だったことを思い出しましょう。
黒人の乗客がバスの後部座席にしか座ることを許されず、専用のコンパートメントを利用したりしなければならなかったあの時代、そして駅やバスターミナルが、黒人と白人の乗客に水飲み場、トイレ、待合室、食事場所など、別々の設備を提供していた時代、彼らはどうやって飛行機による移動をしていたのかについてお話しします。

この人物は1922年生まれでミシガン州から連邦議会に選出された初のアフリカ系アメリカ人下院議員であり公民権運動の貢献者、
チャールズ・コールズ・ディグスJr.
Charles Coles Diggs jr.(1922〜1998)
そこに添えられた彼の言葉は、
チャールズ・コールズ・ディグスJr.
Charles Coles Diggs jr.(1922〜1998)
そこに添えられた彼の言葉は、
「これらのすべての出来事は、私がこの目で直接目撃したものです」
彼は一体どこで何を目撃したのでしょうか。
チャールズ・C・ディグス・ジュニア下院議員は、ワシントン・ナショナル空港の分離撤廃に尽力した人物でした。

航空現場での人種差別廃止に向けた取り組みは、1948年にさかのぼります。
上の1961年、アラバマ州のダネリーフィールド空港の写真には「カラード」専用待合室の表示が写っています。
アフリカ系が飛行機に乗れなかったわけではありませんが、その選択をするのはごくわずかどころか滅多にいませんでした。
アフリカ系が飛行機に乗れなかったわけではありませんが、その選択をするのはごくわずかどころか滅多にいませんでした。
第二次世界大戦前、白人ですら大衆が飛行機にほとんど無縁だった時代に、マイノリティは皆無だったと言ってもいいでしょう。
しかし、1960〜1970年代、航空の劇的な変化により空の旅が特別なものではなくなると、少しずつその割合も増えてきます。
この時期、アメリカは急速な社会変化を経験していました。
1955年から1972年の間に、旅客数は4倍以上に増加しました。
1972年までに、国民のほぼ半数が飛行機を利用するようになりましたが、乗客のほとんどは依然としてビジネス旅行者でした。
少数の乗客がリピーター=フリークエントフライヤーと呼ばれ始めます。
1955年から1972年の間に、旅客数は4倍以上に増加しました。
1972年までに、国民のほぼ半数が飛行機を利用するようになりましたが、乗客のほとんどは依然としてビジネス旅行者でした。
少数の乗客がリピーター=フリークエントフライヤーと呼ばれ始めます。
ジェット機の路線網はますます拡大、次々と各都市を結び、東海岸から西海岸への移動は、わずか5時間で済むようになりました。
経済が急速に拡大すると、少数民族経営の企業も出現し、それが増加するにつれ、有色人種の飛行機の利用者は増加してきます。
そしてこの過程で、彼らはしばしば差別と直面することになります。
経済が急速に拡大すると、少数民族経営の企業も出現し、それが増加するにつれ、有色人種の飛行機の利用者は増加してきます。
そしてこの過程で、彼らはしばしば差別と直面することになります。
航空会社は法的な問題もあり、目に見える分離対策を控えていましたが、一部の空港はあからさまに人種「区別」を行いました。
上の写真のアラバマ州もそうですが、特に南部各地では、当時の多くの空港施設はマイノリティは白人と分離されていましたし、空港職員や飛行機のクルーから差別的扱いを受けかねない状況では、積極的に飛行機を利用する黒人はいなかったでしょう。
前回紹介した各航空会社の素敵パンフレットを改めて見るまでもなく、公民権運動以前の航空旅行は白人のものだったのです。
上の写真のアラバマ州もそうですが、特に南部各地では、当時の多くの空港施設はマイノリティは白人と分離されていましたし、空港職員や飛行機のクルーから差別的扱いを受けかねない状況では、積極的に飛行機を利用する黒人はいなかったでしょう。
前回紹介した各航空会社の素敵パンフレットを改めて見るまでもなく、公民権運動以前の航空旅行は白人のものだったのです。
これは前述のディグスJr.下院議員が実施した調査によって明らかになります。
「私がこの目で見たもの」
とは、ミシシッピ、アラバマ、ニューオーリンズの「変化を嫌う」空港で、待合室、トイレ、食堂が白人と黒人を分けて提供されていたことを指しました。
「私がこの目で見たもの」
とは、ミシシッピ、アラバマ、ニューオーリンズの「変化を嫌う」空港で、待合室、トイレ、食堂が白人と黒人を分けて提供されていたことを指しました。

■ セパレート・バット・センスレス(無意味な分離)

ここにディグス議員が「見たもの」が書かれています。
1955年5月12日
コンチネンタル航空社長 ロバート・F・シックス様
コロラド州ステイプルトン7
拝啓、シックス様:
少し前、航空輸送が始まったばかりの頃、私は個人的な体験を通じて、この新しい輸送手段が、鉄道やバスのように、隔離や差別の因習に陥っていないことを知り、胸をなでおろしたものです。
しかし、最近わたしが赴いた南部では、非民主的な慣行が蔓延していることが明らかになりました。
しかし、最近わたしが赴いた南部では、非民主的な慣行が蔓延していることが明らかになりました。
「白人専用」と表示された待合室、分離されたトイレと水飲み場、リムジンやタクシーは、黒人を最寄りの地域まで運ぶのを拒否していました。
(そしておそらく最寄りの地域から空港までの交通も同様と推察します)
特定の空港レストランでの黒人に対する差別や隔離・・・・これらすべての出来事を、私はこの目で目撃しました。
チャタヌガ空港では、黒人はレストランで制限されずに食事ができますが、なぜか、白人と同じトイレの使用は禁止されているという、実に奇妙なパラドックスを経験することになりました。
黒人は白人と同じ場所で食べ物や飲み物を摂取することができるのに、別々の施設で同じものを身体から「排除」しなければならないと見えます。
黒人は白人と同じ場所で食べ物や飲み物を摂取することができるのに、別々の施設で同じものを身体から「排除」しなければならないと見えます。
これはフロリダ州ジャクソンビルの空港でも同様だと聞いています。
以上の状況を鑑み、本状はこれらの慣行に対する正式な苦情であり、貴殿の代理店および航空会社の影響力を通じて、これらの慣行の即時中止を求める強い緊急要請であるとお考えください。
あなたがこの問題を迅速かつ精力的に処理されることを信じて、ここに謹んでご挨拶申し上げます。
敬具
チャールズ・C・ディッグス・ジュニア下院議員 CCD/ag
「全く意味のない分離」
とディグス下院議員が喝破したように、当時の白人社会は法律や慣習を盾に、このような矛盾した差別を公然と行なっていました。
実際、レストランが一緒でトイレが別、というのは全く意味不明です。
「黒人専用のレストランをわざわざ作るのは面倒だが、何も食べるなというわけにはいかないので、そこは一緒でも目をつぶる。
但し、簡単に設置トイレや水飲み場は(白人の感情に配慮して)分ける」
という、空港側の都合だけが透けて見えます。
■ディグス下院議員の提出した人種差別撤廃案


空港における人種差別撤廃への取り組みは、早くも1948年に始まりました。
ディグスJr.下院議員は、ワシントン・ナショナル空港における人種差別撤廃を求める議会法案を提出しました。
この法案は可決こそされませんでしたが、他の人々が行動を起こすきっかけとなりました。
1948年12月、公民権委員会の委員がトルーマン大統領に直接訴えたことで、空港内のレストランはついに人種差別を撤廃することになります。
この法案は可決こそされませんでしたが、他の人々が行動を起こすきっかけとなりました。
1948年12月、公民権委員会の委員がトルーマン大統領に直接訴えたことで、空港内のレストランはついに人種差別を撤廃することになります。
ナショナル空港のレストランがようやく人種差別撤廃されたのち、1950年代から60年代にかけて、他の分離された空港も、法的・政治的圧力に屈し、順次人種差別を撤廃していきました。
■ 航空界の人種の壁を打ち破ったパイオニア

当然のように、航空会社は、アフリカ系アメリカ人の航空機操縦、客室乗務員となることを認めていませんでしたので、これらの仕事は1960年代まで白人だけに限定されていました。例外は、1956年にニューヨーク航空で初めてヘリコプターを操縦した
ペリー・H・ヤング・ジュニア(Perry H. Young JR.)と、
1958年にモホーク航空で初めてスチュワーデスを務めた
ルース・キャロル・テイラー(Ruth Carol Taylor)です。
youtu.beすごい美人

黒人初の民間パイロットとなったペリー・ヤングJr.は、黒人ばかりの飛行隊タスキーギ・エアメンの教官だった優秀な人物です。
黒人ばかりの飛行部隊そのものが画期的だったうえに、当時彼らの教官となるのは白人ばかりだったので、このことは後に続く黒人練習生たちに驚きと大きな希望でした。
「彼は私たちにとって小さな神様のようでした」
しかも彼は当時、ほとんどの生徒よりも年若くして教官職を得ていました。
それだけ彼の能力が秀でていたということなのですが、そんな人物も、戦後、民間パイロットになるべく就職活動を始めると挫折の連続でした。
彼が黒人であることがわかると、面接にも至らず断られるのです。
タスキーギ・エアメン出身の多くのパイロットたちも人種が足枷となって就職できず、空から永久に去った人もいました。
彼が当時希少だったヘリパイの免許を取り、ニューヨーク航空に応募すると、当時「人種差別を打ち破る」ことを表明していたNYAの経営陣は、宣伝効果も期待できるヘリコプターパイロットとしての彼に目をつけます。
残念ながら、ヘリの飛行時間が規定に足りず、就職は失敗しましたが、後にNYAが新型機シコルスキーS-55のパイロットを応募し始めると、彼は再チャレンジを受け、ついに契約することに成功しました。
ヤングの採用はNYAが望んでいた宣伝効果を生み出します。
当時37歳のヤングは容姿端麗で物腰柔らか、自身の功績を語らない控えめな人物として好感度爆上がりでした。

エボニーマガジン(アフリカ系対象の雑誌)に掲載するタバコやカミソリの宣伝に引っ張りだこだったヤング。彼は、NYAが2件の墜落事故によって破産申請するまで、黒人初の航空会社所属のパイロットとして飛び続けました。
■ マーロン・グリーンとコンチネンタル航空の戦い
民間パイロットの黒人パイオニアをもう一人紹介しましょう。
Marlon DeWitt Green

Marlon DeWitt Green
1963年、アーカンソー州生まれのアフリカ系アメリカ人で、元アメリカ空軍パイロットのマーロン・デウィット・グリーンもまた、航空業界の人種の壁を打ち破った人物です。
彼は、大手航空会社のパイロットとして飛行する権利を求めて闘い、そして最終的にそれを勝ち取ることに成功しました。
これは、人種隔離政策によって、民間航空機の操縦室などが白人専用で黒人が締め出されていた時代に、大きな勝利でした。
先ほどのペリー・ヤングがパイロットとして採用された数年後、グリーンは何年もかかってパイロットになる権利をめぐり法廷で戦い、他の黒人パイロットの足がかりとなる勝訴を勝ち取って、最終的にはコンチネンタル航空に採用されています。
幼い頃から飛行機に興味を持っていた彼は、トルーマン大統領が軍隊の人種差別を撤廃するわずか数か月前、1948年2月にアメリカ空軍に入隊しました。

全米各州で制定された多くの差別法が依然として残っていたため、1950年に彼がパイロット基礎訓練学校に入学を許可されたときには同期に彼以外の黒人はほぼいない状態だったといいます。
1951年、グリーンはニューオーリンズ滞在中に知り合った、白人体育教師エレノア・ギャラガーと結婚しますが、駐留地のあったルイジアナ州では黒人と白人間の結婚同棲が禁じられていたため、一緒に暮らすこともままなりませんでした。
(二人の間には6人の子供が生まれたが、1970年に離婚し、グリーンはその後3度再婚している)
彼はアメリカ空軍に任官して9年間在籍し、爆撃機、空中給油機、水陸両用救難機など、様々な多発エンジン機を操縦し経験を積みました。
1957年初頭、当時日本に駐留していた機長のグリーンは、妻と増え続ける家族のため収入の多い民間パイロットになることを決め、飛行時間を 3,000 時間近く積んで名誉除隊となります。
しかし、彼もまた、民間の航空会社からは人種を理由に採用を何度も拒否されました。
数年間、彼は低賃金の単純労働に従事しながら、応募し続けました。
1957年初頭、当時日本に駐留していた機長のグリーンは、妻と増え続ける家族のため収入の多い民間パイロットになることを決め、飛行時間を 3,000 時間近く積んで名誉除隊となります。
しかし、彼もまた、民間の航空会社からは人種を理由に採用を何度も拒否されました。
数年間、彼は低賃金の単純労働に従事しながら、応募し続けました。
航空会社18社が採用において差別をしないという誓約を交わした、というニュースを見て今度こそ、と応募しても、面接にも辿り着きません。
そんなある日、コロラド州デンバーに拠点を置くコンチネンタル航空が、応募したグリーンに採用のための飛行試験をオファーしてきました。
グリーンがこの時応募書類に写真を提出しておらず、履歴書の人種欄にチェックを入れていなかったことが幸いしたようです。
彼は、試験を受けた結果、6人の最終選考に残りましたが、しかし、やはり採用されませんでした。
6人のうち採用になったのは4人、彼らの多発機の飛行時間は全員1,000時間未満で彼の3,000時間に遥かに及ばなかったのに・・。
(おそらく黒人の彼だけを落とすのはあまりに露骨なので、気の毒な白人候補者を一人犠牲にして体裁を取り繕ったのでしょう)
グリーンがこの時応募書類に写真を提出しておらず、履歴書の人種欄にチェックを入れていなかったことが幸いしたようです。
彼は、試験を受けた結果、6人の最終選考に残りましたが、しかし、やはり採用されませんでした。
6人のうち採用になったのは4人、彼らの多発機の飛行時間は全員1,000時間未満で彼の3,000時間に遥かに及ばなかったのに・・。
(おそらく黒人の彼だけを落とすのはあまりに露骨なので、気の毒な白人候補者を一人犠牲にして体裁を取り繕ったのでしょう)
コンチネンタル航空の本社はコロラド州にあり、同州では採用における差別を禁止する法律が可決されたばかりでした。
そこでグリーンはコロラド州の差別禁止委員会に苦情を申し立てます。
委員会は、彼が人種を利用に不採用になったと判断し、コンチネンタル航空に対し彼を養成コースに採用するよう命じますが、同航空はこれを拒否したため、この訴訟は複数の下級裁判所を経て最終的に米国最高裁判所に持ち込まれることになります。
委員会は、彼が人種を利用に不採用になったと判断し、コンチネンタル航空に対し彼を養成コースに採用するよう命じますが、同航空はこれを拒否したため、この訴訟は複数の下級裁判所を経て最終的に米国最高裁判所に持ち込まれることになります。
そして、1963年、アメリカ合衆国最高裁判所は、コンチネンタル航空に対し、グリーンの雇用を命ずる判決を下しました。
その後もコンチネンタル航空は、他州間を航空していることを盾に、
「コロラド州から受けた雇用命令判決は適応されない」とか、
「黒人パイロットを機内に乗せることは乗客の不快感を招く」とか、
「他州の人種隔離地域では黒人クルー用のホテルが見つからない」とか、
とにかくあれこれと言い訳を連ねてこれを回避しようとしますが、最終的に1964年、グリーンを雇用することになります。
彼は1978年に引退するまで14年間同社でパイロットを務めました。
その間、乗客や同僚のパイロットから搭乗を拒否されたことは一度もなく、彼自身も「記憶に残るほど劇的な」出来事は一つもなかった、と語っています。
「コロラド州から受けた雇用命令判決は適応されない」とか、
「黒人パイロットを機内に乗せることは乗客の不快感を招く」とか、
「他州の人種隔離地域では黒人クルー用のホテルが見つからない」とか、
とにかくあれこれと言い訳を連ねてこれを回避しようとしますが、最終的に1964年、グリーンを雇用することになります。
彼は1978年に引退するまで14年間同社でパイロットを務めました。
その間、乗客や同僚のパイロットから搭乗を拒否されたことは一度もなく、彼自身も「記憶に残るほど劇的な」出来事は一つもなかった、と語っています。
キャプテン・マーロン・デウィット・グリーンは2009年に亡くなりました。
驚いたことに、コンチネンタル航空は新造ボーイング737型機の1機に彼の名を冠しました。

PMDG 737-800 - Continental Airlines - Globe Livery
(Captain Marlon Green)
2010年に至っても、コンチネンタル航空のパイロット4,310人のうち、白人以外のパイロットはわずか6%に留まっています。
雇用以前に、マイノリティの生活水準や教育にまで根本原因があるのだから、この数字が劇的に改善することはしばらくないような気もしますが・・。
グリーンの遺族は、この命名についてこう語りました。
「彼は天国から見下ろして、『よくやった』と言っていますよ。
少し遅いけど、よくやったと。」
その後ほどなく、コンチネンタル航空はユナイテッド航空と合併し、2012年に運航を停止することになります。
続く。